学習塾カノン/健常児だけでなく、LD(学習障害)、広汎性発達障害、アスペルガー症候群、
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数に関する資料
正しい理解のために

■ CONTENTS ■

▽生徒のすごい成長に高い評価を! (2001.09 コラ−ル通信No.14より)
▽答えがあっていれば分かっているのか? (2001.09 コラ−ル通信No.14より)
▽生徒が進歩するワケ (2001.09 コラ−ル通信No.14より)
▽学習段階とは? (2001.04 コラ−ル通信No.11より)
▽数の学習段階とは? (2001.04 コラ−ル通信No.11より)
▽個別震度の重要性 ( 2004.05 コラール通信No.17より)
▽実用的な計算こそ大切 ( 2004.06 コラール通信No.18より)
▽使える知識こそ大切 (2001.08 コラ−ル通信No.12より)
▽子どものものは子どものもの (2001.09 コラ−ル通信No.13より)
▽精神の応急処置 (2000.09 コラ−ル通信No.8より)
▽睡眠不足は学習の障害 (2004.06 コラ−ル通信No.18より)
▽メディアの子どもたちへの影響〜怖がりはメディアから〜 (2000.09 コラ−ル通信No.6より)
▽聴く力とコミュニケーション (2000.01 カノン開室時の資料より)
▽精神とその表現 (2000.01 カノン開室時の資料より)
▽自閉傾向にある子の理解のために (2004.05 コラ−ル通信No.17,18より)
▽障害とは (2006.01 コラール通信No.24より)

生徒のすごい成長に評価を!
以前、三角形がよく分からないという生徒がいました。テストは勘で答えて80点くらいはとるのですが、問題を解くときに、苦しそうな表情をして寝てしまいます。学校の成績は普通。全般的に理解力は高いのですが、どこかにちょっとしたつまずきがあるのでしょう。
いろんな三角形を見たり、描いたり、四角形との違いを見たりするうちに、ある日突然、かみなりに打たれたかのように理解します。そしてどんな問題もすらすらと解き始めます。これはまさに劇的な瞬間で、今まで苦痛とともに蓄積してきた誤解が一度に吹き飛ぶ瞬間です。

さて、この瞬間に対して「あー、まだ三角形の意味が分かっただけか」というとしたらどうでしょうか。このような評価の前では、どんな努力も無意味なものになってしまいます。アポロ11号が月に着陸したときに、「あー、まだ月か」というようなものです。目標を高く持つのはいいことですが、「これが第一歩だ」というのと「まだ月か」では、月とスッポンの差です。特に子どもに対する評価は低い評価に陥りがちです。注意しなければなりません。

生徒が、突然、大きな気づきを得て理解に至る劇的瞬間は、指導中によく起こります。3つのブロックを数えられない生徒がいました。その生徒がある日数えられるようになりました。これは数における劇的瞬間で、ほとんどの人が幼児期に経験する誰も気づかない出来事です。

関数が分からなくて、半数以上の問題を間違えていた中学生が、関数の成り立ちから教え直したとたんに、関数全体を理解し、期末テストで96点をとりました。yをxの式であらわす方法やグラフのかきかたばかりを覚えて、本当の関数の意味を理解していなかったために、知ってるつもり状態に入っていたのです。そして、本当の意味を理解した瞬間、それまでの知識が使えるようになったのです。

一桁のたし算を数えたしでやっと答えている小学校4年生の生徒が、カノンに来るようになって、半年で繰り上がり繰り下がりができるようになりました。4年間かけてできなかった計算が、半年でできるようになるという快挙です。

このような瞬間を、皆さまに十分にお伝えできているだろうかと反省させられます。そして理解できた喜びに浸っている生徒に、十分な評価をしてあげていだろうかと考えてしまいます。もちろん、大切なことは本人の満足であって、回りの評価ではありません。本人が、学んで理解したことに心の底から満足していれば最高です。回りの人はその喜びを共有することができればと思います。

カノンからは修了証をお渡ししています。ある段階を修了することが、どれほどすごいことなのかを十分に考慮し、しっかり誉めてあげてください。

私たちが陥りやすい評価を見てみましょう。下のグラフはある計算の上達グラフです。点線が学校の平均上達度、二重線がAさんです。Aさんがカノンで学び始めてから、太線のように上達し始めました。カノンで学ばなかったときの二重線と比べるとかなり上向きになっていますが、ここで陥るのが点線と比べてしまうことです。カノンで学ばなかったときの二重線は見えなくなってしまうので、どうしても点線との比較をしてしまいがちであることに、注意しておかなければなりません。点線と比べれば、上達を過小評価することになるだけでなく、その子に過大な期待をかけることになります。過大な期待は、上達をストップさせてしまうこともあります。

もう一つの評価を見てみます。細い線が学校の平均、二重線がBさん、点線がCさんです。Bさんがカノンで学び始めてから、太線のように上達し始めました。しかしここでもCさんとの比較となります。
「Bさんの実力はCさんと同じだ。もっと努力すればCさんよりもいい成績がとれる。」と考えてしまいがちです。Bさんはほめられるどころか、努力不足と見られてしまいました。

私は、いつも、カノンの先生たちに「生徒の驚くべき成長に気づくようになりなさい。気づかないとやりがいがない。」といっています。先生としての喜びは、保護者の方々と同じように、生徒たちの驚くような成長にあるのです。生徒のすごい成長を高く評価していただき、喜びを分かち合っていただければと思います。

答えがあっていれば分かっているのか?
生徒が分かっているかどうかを決めるときは、問題をやらせて正解かどうかで決める、という方法が主流です。40人をいっせいに教えるとしたら、テストしないと分からないという考えや、生徒の顔色で分かっているかどうかを判断するのは科学的ではないという学者的な判断によって、だんだんとテストで人の理解を判断するようになってきたのかもしれません。

カノンでは、答えがあっているかどうかだけで判断することはなく、答えるときの表情や態度も合わせて総合的に判断し、本当に理解しているかどうかを決めるようにします。

そんなことができるの?と思われるかもしれませんが、ちょっと考えてみてください。私たちが、普通の会話で、相手に何かを説明するときに、分かっているかどうかを確かめるためにテストをしますか。相手の表情や態度から推察して、少し説明を詳しくしたり、もう分かったなと判断したりします。相手の「なるほど」「分かりました」というような、合意する返事も参考になります。

人は理解したときや理解していないときに、特徴的な身体的反応がおこります。眉をひそめる、といいますが、理解していないときはそんな表情や態度がでてくるということです。ほかにも目をしばたかせたり、うずくまったり、首をかしげたりしますが、それには一定の法則があり、カノンには対応策まであります。

さて、答えがあっていれば理解していると判断してもいいのではないか、という疑問をもたれる方もいるでしょう。では、このような場合はどうでしょうか。「Aさんはりんごを5こ持っています。Bさんに2こあげました。Aさんの残りはいくつでしょうか」という問題があったときに、「だいだいこういう場合は、大きい数から小さい数をひけばいいんだよ」と考える子は、理解しているといっていいでしょうか。

このような子は、いつも60点から80点をとる子です。100点はあまりとりません。でも、60点以上はとり続けます。これは、理解しているかどうかの問題ではなく、確率の問題といっていいでしょう。この子が言うように「だいだいこういう場合は、大きい数から小さい数をひけばいい」場合が、60%以上あるということです。Aさんはあげたから減っているということや、残りを求めるときはひき算を使うという計算への適用は、理解していない可能性が高いのです。

このような問題の解き方は、一般的にもよく使われます。このような問題のときはこのように解くというようにパターン化するわけです。受験の時は、このパターンをいかにたくさん持つかが合格の決めてとなります。そしてよりよい学校へ行くことを目指した教育は、ついには全体がそのような構造になってしまったのです。

大切なのは、正しく理解しているということです。正しく理解できないことを、不愉快に思ったことはありませんか。人に説明したときに、相手が理解できずに不満そうな態度を示したことを、目にしたことがあるでしょう。子どもたちも、理解できないことに対して、不愉快に思っています。理解しないまま勉強し続けるということは、不愉快の上塗りをしていくことになります。そして、その解決策として、不登校を選択する子もいます。

正しい理解を大切にしましょう。分からないまま次の勉強に進んではいけません。答えが合っていても、理解しているとはかぎりません。答えが時によって合ったり間違ったりする場合、勉強をいやがる場合、批判的になっている場合、体調をくずした場合などは、理解していない可能性があります。

理解していない個所を正確につきとめる方法は、カノンの学びかたの中にあります。ここでそのすべてをご紹介するスペースがありませんが、ひとつだけお教えしましょう。皆さんが指導される場合は、とにかく分かっていたところまでもどって、そこからもう一度、すべてをやり直してください。分からないところにもどるのではありません。分からないところはすでに分からなくなっているところですから、いくらやり直しても分かりません。分からないところの前、つまり分かっていたところにこそ、そのつまずきがあります。分かっていたところまでもどる、それがコツです。

生徒が進歩するワケ
生徒が答えを間違えたとき、一般的にはどのように考えるでしょうか。この生徒はなぜ分からないのだろう、どこが分からないのだろうと考えるかもしれません。

生徒がやりたがらないとき、一般的にはどのように考えるでしょうか。この生徒はなぜやる気がないのだろうか、どうしたらやる気をだすのだろうかと考えるかもしれません。ほとんどの場合、生徒の問題として考える傾向があります。

では生徒のどこに問題があるのでしょうか。人は生まれながらにして学ぶ意欲を持っています。与えられたものではありません。そしてありとあらゆるものを学ぼうとします。与えられた学習もできるかぎりの努力をします。

このように、全面的に学ぶことに前向きな生徒のどこに問題があるのかと考えてみても、本当の理由が見つかることはないでしょう。生徒は、学ぶための方法やつまずいたときの解決方法も知りません。生徒たちは壁にぶち当たりながらも、たえず前進し続けようとしているだけです。

教育という視点からすると、教え方に問題があると考えるべきです。生徒が答えを間違えたら、生徒が十分な理解に至るまでの指導ができていなかったということであり、その欠陥を見つけ指導しなおすべきです。生徒がやりたがらないときは、かならず理解できていないことがあります。それは何かをつきとめ、指導し直さなければなりません。

生徒に改善を求めるのなら、生徒に学びかたを指導してからにするべきです。学ぶときは、はじめに何を学ぶかを決め、そしてどのように学べば理解できるのかという方法と、つまずいたときの解決方法を知らなければなりません。このような学びかたの指導を行ったあとでなら、生徒自身に改善を求めてもいいでしょう。しかし学びかたを教えるまでは、生徒に改善を求めるべきではありません。

カノンで長く勉強している生徒の中には「先生、これが分からない」といって指摘してくれる生徒がいます。分からないけれどがんばってやるという発想はありません。分からないところはそのままにせずに、分かるようにしてから次に進むようにしています。7−2=、6−3=といった問題ではすらすらと答えていた生徒が9−3=、9−7=といった問題で分からないと指摘してくれることもあります。そうすると私はその理由を考え、指導方法に改良を加えます。たとえば前段階で完全な理解に至っていないところがあるとすれば、そこまでもどって指導しなおしたり、ステップとステップの間にさらに細かいステップを加えてその生徒が登っていけるようにする、といったことです。

カノンで生徒がプリントをするとほとんど正解です。これは簡単な問題をやらせているからではありません。カノンでは、完全な理解に至ったら次のステップに進むからです。完全な理解に至ったら次のステップの内容を教え、そしてプリントに取り組む。このようにして完全な理解をしながら進むことが、カノンの生徒が着実に進歩するワケあり、それを支えるものは、生徒に改善を求めるのではなく、教育として指導をたえず改善しようとする姿勢にあるのです。

学習段階とは?
●学習段階とはどんなもの?
子どもは首がすわり、自分で座っていられるようになり、歩き始め、走り始めます。この順番が逆転することはなく、学習に段階があることが分かります。 計算ではたし算ができるようになってからかけ算の筆算を習います。かけ算の筆算にはたし算が含まれていますから、これが逆転することはありません。スイミングスクールに行くと細かく級が設定されています。これも段階を追って学習していくことを示しています。教科書を1年から6年まで見ていくと、学習段階が守られています。

学習段階は階段やはしごのようなものです。一段一段登っていけば着実に一番上まで到達できます。ところが段を飛ばしすぎると、つまずいたり転げ落ちたりします。また一段一段が大きすぎると階段を登ることすらできず、その場に止まり続けます。

適切な段階を追って指導された子どもは着実に成長していきます。そして学ぶことに意欲が見られます。逆に段階を飛び越して学習するとすぐにつまずきやる気をなくします。そしてつまずいた段階にいつまでも止まり続け、勉強を先に進めることに大きな抵抗を示し始めます。

●教育の現状
学校で勉強する内容に目を向けてみると、入学前からたし算ができるようになっている子どももいれば、数が数えられない子どももいます。全員同じ進度で同じ内容を教えられていても、学校と同じペースで理解していく子どももいれば、学校に入学する前の段階にとどまっている子どももいます。

このような例をあげると、小学校入学前の早期教育の必要性や勉強に対するやる気のことのように考えられがちですが、もっと大きな理由として学習段階があります。

分かりやすい例でお話しします。みなさんはつかまり立ちがやっとの幼児に自転車の乗り方を教えようと思いますか? 教えてもむだだと思われるでしょう。なぜならまだその段階まで成長していないからです。3才の子どもにアイロンがけをさせようと思いますか? まだ危険に対処する力も知識もないのでやらせないでしょう。小学1年生の教科書が読めるようになったばかりの子どもに6年生の教科書を読ませようとしますか? 読めない漢字ばかりなので読ませないでしょう。5までなら数えられる3才の子どもに因数分解を教えますか? 当然教えません。

極端な例ばかりだと思われるかもしれませんが、よく見てみると至るところでそのような教育が行われています。たとえば5+3がやっとの子どもに3桁の筆算をさせるのはどうでしょうか。1年生の漢字がやっと読める子どもに4年生相当の漢字を使って理科のテストをするのはどうでしょうか。九九を覚えていない子どもにわり算をやらせていないでしょうか。これが現在の学校教育のかかえる課題だと思います。教科書は段階を守り、先生の指導も段階を守っていますが、生徒全員を同じ進度で指導せざるをえないために、生徒ひとりひとりの学習段階を守れなくなっているのです。

また問題となる段階の飛び越しはすべての子どもに起こりえます。それは極端な段階の飛び越しでなくとも、ほんのわずかな飛び越しでもつまずくからです。九九で7の段まで覚えた子どもに8×8という問題をやらせれば、まだ8の段を覚えていないのですから、段階を飛び越していることにかわりありません。

学校で遅れをとらないために早期教育に力を入れたり、予習に力をいれて同じことです。その教育がその子の段階を飛び越していれば同じだからです。



●段階を飛び越すと何がおこるか?
勉強嫌いの多くの理由はこの段階の飛び越しによります。やる気がないと言われる子どもたちの中にも、段階を飛び越した指導を受け続けたために自己防衛的に勉強を遠ざけようとしている姿がよく見られます。

学習段階を飛び越した場合、分からないだけではすみません。身体的な反応が起こり逃避や反発が引き起こされます。勉強しているときにボーッとしている子、姿勢の悪い子、学校へ行きたがらない子、体調が悪い子、「なにがなんだか分からない!」と訴えている子の中にもたくさんいます。

幼少期には何にでも興味を示して学ぶことに喜びを感じていた子どもたちが、小学校に入って学ぶ表情に影をおびてきます。そして学年が上がるごとに学ぶ意欲にかげりが見られ、そのうちに学ぶことは苦しくて遊ぶことが楽しいことになっていきます。学ぶことを苦しくしている原因のひとつが段階の飛び越しです。学校の進度についていくことばかりに気をとられて、飛び越したあとの段階を繰り返し学習させてしまいます。そして子供たちはつまずいた過去に理解できなかった苦痛を残したまま、競争心を奮い起こして丸暗記地獄へと突入していきます。


●どのようにすべきか?
答えは簡単です。その子に合った段階の教育を行えばいいのです。しかしみんなと同じ進度でないとかわいそうではないかという意見もあります。

では大人の私たちに当てはめて考えてみましょう。たとえば5人の友達と一緒にドイツに長期旅行に行くためにドイツ語会話を習いにいくとします。自分以外はみんなある程度のドイツ語がしゃべれますが、自分だけはまったくの初めてです。友達のひとりが言いました。「ある程度しゃべれるから会話の授業はみんな一緒に上級コースにしようよ。」まったくしゃべれない自分はどうしますか? みんなと同じがいいからといって上級コースにしますか? いいえ、そんなことをしてもまったく勉強になりませんから、当然初級コースにします。そしてこう言うでしょう。「会話の学校では別のコースで勉強するけど、旅行に行ったら一緒に行動して助けてよ!」

子供たちが学ぶときも同じだと思います。勉強するときは自分に合った内容で理解しながら勉強し、社会ではみんなお互いに助け合いながら働けるようにしたいものです。

学校には制度上、指導上、運営上の規制がありますから、合わさざるを得ない面があります。しかし学校になんとか合わせながらも、正しい学習段階で学習することによって成長していかなければなりません。自分に合った教育を受けることが、子どもに与えられるべき権利ではないかと思います。


●飛び越した学習段階を見つけるには
学習段階を飛び越すとつまずきます。ですから正しい学習段階にもどって指導するには、初めに子どもがどこでつまずいたかを見つけなければなりません。

たとえば子どもが自分の見ていないところで石ころにつまずいてころんだとしましょう。そして泣き始めました。泣き声を聞きつけてそばに行きましたがなぜ泣いているのか分かりません。よく見るとひざをすりむいています。「どうしたの?」と聞くと、「いたいよう〜」といいました。きずの手当てをしたあと原因をつきとめようと思いました。さてあなたならどうしますか?

泣いているときはすでにつまずいたあとですからどこでつまずいたかは分かりません。ひざをすりむいているので転んだことは分かりますが、なぜ転んだのかは分かりません。そこでなぜ転んだのかを聞いてみます。「石ころがあったんだ」と答えました。これで転んだ原因が分かりました。石ころをかたづけてつまずきの原因は取り去られます。

では勉強の場合はどうでしょうか。算数の勉強でつまずいて分からなくなった子どもがいます。そして泣き始めました。泣き声を聞きつけてそばに行きましたがなぜ泣いているか分かりません。よく見ると宿題のプリントが白紙のままです。「どうしたの?」と聞くと、「分からないよう〜」といいました。とりあえずなきやんだあと、原因をつきとめようと思いました。さてあなたならどうしますか? 泣いているときはすでにつまずいたあとですからどこでつまずいたかは分かりません。宿題をやっていないので宿題の問題が分からないのだということは分かりますが、なぜ分からないのかは分かりません。そこでなぜ分からないのかを聞いてみます。「分からないんだ」と答えました。これでは分からない原因は分かりません。

石ころにつまずいたときとは違い、思考は目に見えないので原因がつきとめにくいことがあります。しかし原因のある場所は石ころと同じです。石ころの場合は泣き始める直前に石ころにつまずきました。宿題の場合も同じです。泣き始める直前にあります。どこから分からなくなって泣き始めたのかを聞き、その直前にある原因をさがします。

残念なことにこのことが分かっている先生はあまりいないようです。ほとんどの場合分からないところはどこ?と聞いてそこを教えます。つまり泣き始めたところです。でも分からないところはすでに分からなくなっているところであって分からなくなった原因ではありません。原因が取り除かれないのでまたつまずいてしまいます。石ころを取り除かないかぎりまたつまずいて転んでしまうように、分からない原因を取り除かない限りいつまでもつまずき続けるわけです。

カノンにいらっしゃっている皆さんは上記の例をもとにして原因を見つけ出してください。きっとそこにあるはずです。ただし学校の勉強の場合は複雑です。なぜならつまずいたあともそのまま先に進み続け、つまずいたヵ所を見つけることが困難になるほど隔たりがあるからです。そのような場合はカノンにご相談ください。カノンはつまずきの原因を見つけ出してとり除きます。今まで前進しなかった子どもがカノンにきて突然前進し始める理由はここにあります。

数の学習段階とは?
いろんな学習段階がある中で、数の学習段階はとても興味深いものです。一般的に研究があまり進んでおらず、カノンでは独自に数の学習段階を発見し、生徒にあった指導を行っています。今回は数の学習段階をご紹介します。

[1]数の理解に必要な3つの要素

1.概念形成
概念とは、「3」であれば、おかしを3こ、電車が3両、前から3番目のおもちゃなど、いろんな種類の3を経験することでえられる「3」に対する共通の考えです。概念が形成されていなければ、数については何も分かりません。

2.感覚形成

数字に対する量的、位置的感覚が必要です。たとえば3と6を聞いて6は3の2つ分くらいの量と思える量的感覚、「10km走ろう」といわれて「たいへんだなあ」と思える感覚、9と聞いて10のまえだなと思える感覚、2,3,4,5,6、の次に10といわれて随分と飛んだなと思える位置感覚、4こある飴が6こに増えると言われて2こ分増える量の感覚などです。人によって感覚は違いますが、相対的に判断できる感覚です。これが形成されていないと計算がスムーズにできません。

3.計算技術
効率的で実用的な計算技術が必要です。効率的で実用的な計算技術とは、3+2=というひとけたの計算の場合、3という量的感覚と2増える感覚を利用して5という量的感覚に結びつけて答えをだしたり、3という位置感覚から2つ分の位置移動を行って5という答えを出すことができる技術です。本来はどのような方法であっても答えがあっていればよいのですが、効率的で実用的な計算技術を持つことが社会生活では必要です。そのために数えたすのではなく、瞬時に答えの数字に移動できるようになっておきたいものです。たとえば4+3で、4に5,6,7と1ずつ数えたすのではなく、4から3増えた量の7、もしくは4から3移動した位置の7というように即座に答えが出せるということです。数えたしは大人でもときどき使う方法で間違いではありませんし、効率的な計算ができるようになるまでに経験するひとつの段階です。しかし量的な感覚が身についていない可能性が高いということ、計算に時間がかかり実用的でないこと、計算の上達に限界があることから、最終的には瞬時に答えの数字に移動できるようになることを目指します。

[2]数の理解の段階

1.概念、感覚形成段階
人とのコミュニケーションを通して数の概念と感覚を形成します。この段階は幼児期から始まりますが大人になっても継続的に形成され続けます。この段階が不十分な場合は次の段階に進みません。

2.数の操作段階
数の増減、位置移動に関する操作をする時期です。おかしを2つもらったあとでもう1つもらってよろこんだり、6つのおかしを2人で分けたときに自分が4こあったら1つをあげようとしたり、じゃんけんで順番を決めようとしたりします。3才頃からこの段階に入りますが、大人になっても継続的に形成され続けます。この段階が不十分な場合、技術的計算ができません。

3.技術的計算段階
たし算などの計算技術を使い始めます。この計算技術にも段階があり、2+3では次のように計算します。

(1)全部数える 1、2,3,4,5
(2)始めの数に次の数を数えたす 3,4,5
(3)大きい方の数に小さい方の数を数えたす 4,5
(4)両方を合わせた数を答えとする 5

小学校に入る頃には半数近い子どもが小さな数において上記4つの段階をクリアしています。

[3]数につまずく原因


1.学校での段階の飛び越しの問題

学校の教科書を学年で追って見ていくと、正確に段階を追っていることが分かります。たとえばたし算であれば、答えが10まで、繰り上がり、2桁の筆算というようにだんだん複雑になります。また2桁の筆算を習っているときは、図形を習っているときでも2桁の筆算以上に複雑な計算はでてきません。漢字は国語で習いますが、算数にでてくる漢字は国語で習った漢字にかぎられています。先生は教科書の順番で指導しますから正しい段階は守られます。

それにもかからわず、段階の飛び越しで悩み苦しむ子供たちが学年が上がるごとに増えていくのはなぜでしょうか。

学校では全員が同じ進度で指導されます。数人の生徒が分かっていなくても次に進みます。つまりよくないことは分かっていながら段階を飛び越します。40人近い生徒が同じ進度で学ぶことは不可能ですから先生もそうするしか方法はありません。段階を飛び越せば生徒は飛び越す前の段階に止まります。学年が上がることにその割合が増えます。こうして生徒の実態調査では「学年が上がるごとに、勉強が分からない生徒の割合が増える」という結果がでてくるのです。

家庭ではそれを補完するために塾、家庭教師、通信教育などに頼りますが、多くの場合学習段階をさかのぼって教えることは少なく、飛び越した段階の難易度の低い問題をやらせます。段階をさかのぼって勉強しても追いつくまで成績は上がりませんから、ほとんどの人は待ちきれずテスト範囲を勉強させてしまいます。生徒はその場を切りぬけるために、丸暗記地獄であえぎつづけることになるわけです。

2.幼少期のコミュニケーション力不足による問題
何らかの障害が起因して、親、兄弟の接し方が正しくても、発達の遅れや人への興味の低さなどの問題から、人とのコミュニケーションを通して数を理解することが不足していることがあります。そのことが数の概念や感覚の成長を大幅に遅らせる原因となっている可能性があります。

そして学齢期になると計算数の概念や感覚が不十分なまま学校に入りいます。学校は子どもたちがすでに数を理解しているという前提ですぐに計算に入ります。そのために概念、感覚形段階や操作段階が未成熟なまま計算技術を学ぶことになり、結果として感覚形段階にとどまってしまいます。

また学校では年間で指導する量が決まっていますから、理解が不十分な生徒がいても先に進まざるをえません。生徒は勉強が嫌いになり、理解できないことからくる苦痛を逃れること(どうやって勉強をせずにすませられるか)に力を注ぎ始めます。

[4]つまずいた場合の指導方法

1.どんな指導が必要か

前述の「飛び越した学習段階を見つけるには」で説明したように、どこでつまずいたかを見つけることから始めます。そしてつまずく前の段階から指導を行います。概念や感覚が不足している場合は、コラール通信の連載「数」で書き続けているように、普段のコミュニケーションがもっとも有効な指導となります。効率的な普段のコミュニケーション方法についても現在研究中です。学校の勉強で段階を飛び越して進んでしまった場合は、理解できていない個所を見つけ、その前の理解できている個所からもう一度勉強し直す必要があります。

2.カノンでは?
数のつまずきは見つけにくい場合が多いのですが、皆さんはカノンの一員ですからご遠慮なくカノンにご相談ください。ご家庭でも指導しスピードアップしたい方は、学習会に参加し指導方法を学んでください。学習段階はカノンにて厳密にチェックされ修了証で報告されます。その学習段階までをご家庭でもご指導いただけばっきりとした成果が現われます。

現在カノンにおける算数の基礎ステップは「10までの数、くりあがりまでのたし算、くりさがりまでのひき算、九九、わり算」の5項目だけでも約100のスモールステップがあり、ブロックなどを使ったトレーニングは約30種類、プリントは約400種類あります。ステップは生徒の理解をより速く高めるために毎日改良付加され、正確さを増しています。上記5項目以外にも筆算の計算、大きな数、図形、関数、時計、お金などの項目も次々と作成中です。


■■個別進度の重要性
 小学校に入ると、算数、国語のような教科学習において問題点が浮かび上がってきます。それまでは生活の中で楽しく覚えていた言葉や数字が、生活から離れて、教科書で学ばなければならないこととして教えられ、どのくらい習得したかを評価されるようになります。そして、学年やクラス単位で全員が同じ進度で教えられます。このあたりから多くの保護者は今まで感じたことのない子どもの変化に気づきはじめます。学校に入るまで、もしくは学校に入って少しの間は、何でも取り組み、楽しそうにしていた子どもが、だんだんやりたがらなくなり、勉強が重荷になっているように見えたりします。
  幼稚園でも勉強ぎらいは起こりえるのですが、学年という横割りの進度を強制されることが少ないので、顕著に現れることは少なく、あまり問題になりません。しかし学校に入ってからは、みんな同じように教えられ同じように進むことが重視されるために、本来人によって違う進度との間で格差が生じ、それが子どもたちに大きな負担となっていくのです。
 相対評価から絶対評価に変わり、その子がどのくらい進歩したか習熟したかを見るようになってきたとはいうものの、未習熟であっても次の単元に進むのですから、評価とは裏腹に子どもの負担は軽減されていないわけです。学年別に勉強が分かるかどうか、勉強が好きかどうかというアンケートを見ると、学年が上がるごとに勉強が分からなくなり、勉強が嫌いになっていく傾向があります。この傾向は子どもたちが分からないまま、未習熟のまま次の単元に進み、次の学年へ進級していくことにあります。
 1年生の時に5人の子が、ある単元を分からないまま2年に進んだとします。その 5人はよほど幸運でない限り2年でも分かりません。そしてまた新たに2年で5人の子がある単元で分からないところがあったとします。1年は5人の子がつまずきましたが、2年になると合計で10人の子がつまずいていることになります。運よく2人がつまずきを解消し8人になりました。3年になるとまた新たに5人がつまずきました。合計13人です。数人が家族や塾や友人に教えてもらってつまずきを解消する一方で、新たにつまずいた子を増やしながら学年が上がっていきます。
 こうして、6年で約半数があまり分からないという回答をするようになり、中学ではその傾向がさらに高まるわけです。学校教育の最大の課題はここにあると私は思います。
 確かに、限られた教育費と教員数の中で、どのような指導にすればこの課題をクリアできるのかは簡単に答えがでることではありません。しかも「全員が同じように教えられること」や「全員が同じように進級すること」は現在の学校教育に対して多くの保護者が強く望むことでもあり、その要望のを満たしながら問題を解決することも容易ではありません。しかしこの課題が解消されない限り、すべての子どもたちが、学んでいることに十分な満足を感じることはないでしょう。
 ではどうしたらよいのでしょうか。
 まず、学校教育の変革は専門家に任せることとして、子どもたちがどのように学んでいくことが最善の方法なのかを確認し、それに向かって私たちに何ができるかを考えてみましょう。  子どもたちが十分な理解を得ることなく教育が進むことで学ぶことへの意欲を失う、このことを解決するためには、個別に進度を設定することです。これは間違いありません。人によって学ぶスピードは違います。もっと厳密に見ていくと、学習ステップを上る歩幅が人によって違うのです。
 ある建物に小さなステップの階段があったとします。幼児は1段ずつ歩いて上がりますが、小学生は2〜3段飛ばしで、大人は5〜6段飛ばしで上がって生きます。これは体の大きさによって歩幅が違うのでスピードも違ってくるわけです。
 一方、学習ステップは体の大きさで上がるスピードが決まるものではありません。個人が持っている思考の歩幅で決まるのです。
 さらにこの思考の歩幅は年齢で決まるものでもありません。もちろん体も思考も年齢によって前進するスピードの平均値はあります。学校の問題は、指導効率を優先した制度であるためにクラス全員を平均値で指導することとなり、平均値からかけ離れた子どもたちが問題をかかえることです。さらに平均値の子どもであってもつまずいたままにしておけば、大きな問題をかかえることになります。また平均値よりもかなり速いスピードで前進する子も別の問題をかかえることになります。ですから個別の進度でなければなりません。そうでなければ、ほぼ全員がどこかでつまずき、解決されないまま先に進んでいくということになるのです。

大切なことは、すべての人がそれぞれステップをあがるスピードが違い、個別の進度を示すようになるということです。指導する効率を考えてグループで指導してもかまいませんが、同じステップにいる子でなければなりません。ひとケタのたし算のステップにいる子と2ケタのかけ算の筆算のステップにいる子を同じグループにして、2ケタのかけ算の筆算を教えるようなことをしてはいけません。ひとケタのたし算のステップにいる子は、2ケタのかけ算の筆算の問題の中でくり上がりがないものはできるかもしれないので20〜30点は取れるかもしれませんが、いったいどのくらいの苦痛をその子に与えることになるのでしょうか。
 5までの数ならば、概念と量的感覚、位置的感覚が形成され、数えることもできる子がいたとします。一般的によく間違えられるのは、この子に5+3をやらせてしまうことです。5と3は分かっているのでやらせてしまいますが、答えの8は思い浮かぶはずがありません。これが、ステップを飛び越えてしまうということです。8までの数の概念と感覚が形成されてこそ初めて、その数までの計算も指導し始めることができます。
 現在の学校制度では、違うステップにいる子どもたちを同一のステップで指導することは避けて通れないのも事実です。そして学校に在籍する以上、現実的には学校の進度を念頭に置かなければならない子が多いでしょう。しかし、子どもを中心に置いて理想の姿を考えると、すべての子どもが個別のステップで進むようにすることが唯一の方法であることが分かります。

■■実用的な計算こそ大切
「今はまだ3人か。今日のパーティーはあと5人来るからね。」と聞いて、全部で8人来るということが分かれば、その人の計算力は実用的と言えます。「あめは8こあったでしょ。ずるいよおねえちゃん。5こも取って。私は3こしかないじゃないの。」これは8こを2人で半分に分けて4こずつにすべきという主張でしょうか。この計算力も実用的です。「6こできたか。それじゃあ、あと4こ作っといてくれ。」と上司から言われました。全部で10こ作ればいいんだなとすぐ思えればいいでしょう。

 私たちが普段の会話で使うのはこの程度の暗算です。必要なのは6+3の答えを、6,7,8,9と数えたすのではなく、即座に9と言える暗算力です。数が大きくなっても暗算は概数計算です。「5万人収容できる会場に4万人の観客が入っています。」といった概数が使われます。ですから基本は10までの数の計算です。29863867を暗算ですることなど、ほとんどないでしょう。暗算するときは30004000という概数で考えます。正確な数字が必要な場合は電卓を使えば十分です。
 最低限の計算の基本を身につけさせたいと考えるのなら、10までの数のたし算ひき算を暗算でできるようにしたり、くり上がりくり下がりの計算を暗算でできるようにすることが先決です。

 ここで一般に行われている実用性がない計算方法の具体例をあげてみます。

<たし算をまだ数えたしている生徒に「8+7」を指導する場合>
8の横に〇を7こ書きます。

  8 〇〇〇〇〇〇〇

そして〇を9、1011…と数えていき、15という答えを導き出します。
 このやり方を長期にわたって使うのは感心しません。数えたすやり方は時間がかかり過ぎて、暗算としての実用性がないからです。
 この生徒に今指導しなければならないことは、たし算を数えたしではなく、即答できるようにすることです。それができたあとでくり上がりの指導をします。その場合も7を2と5に分けて、8と2で10のまとまりを作り、残りの5を加えて15とするやり方を工夫しながら教えるべきです。

<たし算をまだ数えたしている生徒に「3847」を指導する場合>
  8の横に7こ〇を書きます。

    38 〇〇〇〇〇〇〇
  +47

9、10、11…と数えたして、15を導き出します。

  答えの1の位に5を書いて十の位に1くり上げます。

    1
    38 〇〇〇〇〇〇〇
  +47
     5

 1+3+4を「1,234,5678」と数えたし、答えの十の位に8を書きます。

  1
   38 〇〇〇〇〇〇〇
 +47
   85

数を数えることさえできれば、この方法を使って答えを出すことができます。しかしこのようなやり方を生活の中で使うことがあるでしょうか。これでは計算にあまりにも時間がかかります。つまり、実用性がまったくないといえるでしょう。それよりは2+3のような小さい数の計算において、暗算で即座に5と答えることができるようにする方が先だと思います。
  10までの数を数えることはできたとしても、3このブロックを見て「3」とこたえることができず、「1、2、3」と数えなければいくつあるか分からない場合は計算できません。3+4をやらせるために〇を3こと4こ書かせて、「1、2、3、4、5、6、7」と数えて答えを7と書かせたとしても、暗算で答えが出せるようになることはありませんし、実用的ではありません。なぜなら、3このブロックを見ても3というまとまりとしてとらえることができないのですから、3のまとまりと4のまとまりを合わせて7になるということは理解できませんし、順序としてとらえることも困難でしょう。この場合は2や3のような小さい数をまとまりでとらえる指導や、数の位置関係(4の次は5、8の前は7)を指導する必要があります。

 生徒に実用性のない計算方法で答をださせて、できるようになったと勘違いするのは問題です。しかし一方で、実用的でないと知りながらこのような方法を取らざるを得ない場合があります。それは学校において、生徒全員が同じペースで次の単元にすすむことによって、数人の生徒が置き去りにされてしまう場合です。置き去りにされた生徒は実用的でなくとも答を出して授業に参加しなくてはなりません。学校はこのような不合理を解決するために、個別進度を実現してほしいと思います。
 方程式や関数でも同様に実用性が重要です。3x+3=9という方程式を解いてx=2を導き出せても、方程式を使いこなせなければ意味がありません。たとえば、この方程式となる具体的事例を挙げよと言われて「3人がりんごを同じ数ずついくつか(xこ)持っていて、自分の3こと合わせると全部で9こになる」といった例が挙げられなければ方程式を実用的に使える力を持っているとは言えないでしょう。
 一次関数において、「y=−4x+5について、xが2増加したときのyの増加量を求めよ」という問題が解けても、「一次関数で表される実生活の中にある例を挙げよ」と言われて、基礎料金があって1分や1回といった単位ごとに料金が加算される電話料金、ガス代、アミューズメントパークの料金などを具体例として言えなければ実用的とは言えません。
 中学・高校になると、確かに一見実用的でないものもありますが、それが実生活でどのように役立っているのかを伝えていくことが重要になるでしょう。


使える知識こそ大切
●使える知識はどのくらいある?

私は、小学校から大学までに学んだ知識のなかで、実際の仕事や生活で使っている知識はなんだろう、とよく考えます。使える知識は、小学校までに学んだ知識がほとんどで、(先生として生徒を教えるときは別として)中学校以上になると、漢字や断片的な知識ぐらいしか見つかりません。大学時代に、ゼミでバッハを学んだことは特別に役立っていますが、それは、私が演奏に役立てようとか、人生に役立てようと思ったからであって、それ以外に使えるものを見つけ出すのは困難です。特に中学、高校は、テストのために勉強した、といっても過言ではないでしょう。テストが終わったら(テストの前から?)どんな知識も使われることなく、すっかり忘れてしまうような勉強のしかたでした。

今から考えると、二度としたくないようなひどい勉強のしかたですが、友人の学生時代の話しや、学生のアンケート調査の結果などから見て、私はごく一般的な学生時代を送ってきたように思えます。特にオイルショック後の知識偏重、学歴偏重の時代が私の学生時代ですから、なおさらです。

学校で学んだ知識を有効に使っている方は立派です。本当に理解していたのでしょう。まさに、理想の姿といえます。しかし一般的には、学校で学んだ知識を、使えない知識として持っていることの方が多いようです。

●使える知識とは

使える知識とは、仕事や生活で直接使う技術、つまりお箸の持ちかた、ゴミの捨てかた、電話のかけかた、車の運転のしかた、パソコンの使いかたような、実用的な知識だけを指しているのではありません。正しく理解し、適用できる知識のことです。

使えない知識とは、つぎのようなものです。夏目漱石が、我が輩は猫である、という本を書いたことは知っているが、その本を読んだことがなくて、内容を知らない。公式は覚えているが、何に使う公式かは知らない。聖徳太子が摂政になったことは知っているが、摂政がなにかを知らない。因数分解のやり方は知っているが、因数分解が何かは知らない。シャープがいくつあるとなに長調かは言えるが、音符が読めない。英語の平叙文を疑問文にかえることはできるが、英語の本は読めない。はいきゅうを漢字で配給と書くことはできるが、配給がどんなものかは知らない。バッハは音楽の父といわれているらしいが、なぜ音楽の父なのかは知らない。法隆寺がインド文化の影響を受けていることは教科書で読んだが、当時のインド文化がどんなものかは知らない。などなど、テストのために覚える知識をあげれば、いくらでもでてきます。

これを逆にすると、使える知識となるわけです。「夏目漱石が、我が輩は猫である、という本を書いたことを知っていて、その本を読み、内容を知っている。公式を覚えていて、何に使う公式かを知っている。」といった具合です。

●使えない知識になる理由、その1

上記の例を見れば、テストのために丸暗記するような勉強が、如何に使えない知識を作るのかが分かります。使えない知識製造機といったところでしょうか。まったく役に立たない勉強です。むしろ知らない方がマシなこともあります。なぜなら知っていると、こんなことが起こります。

●知ってるつもり

「夏目漱石が、我が輩は猫である、という本を書いたことは知っているが、その本を読んだことがなくて内容を知らない」人に聞きました。「夏目漱石の、我が輩は猫である、って本、知ってる?」「もちろん知ってるよ。」

「聖徳太子が摂政になったことは知っているが、摂政がなにかを知らない」人に聞きました。「聖徳太子が摂政だったって、知ってる?」「そのくらいは当然、知っているよ。」

「バッハは音楽の父といわれているらしいが、なぜ音楽の父なのかは知らない」人に聞きました。「バッハって、音楽の父っていわれているんだよね。」「ああ、偉大な人なんだよ。」

「法隆寺がインド文化の影響を受けていることは教科書で読んだが、当時のインド文化がどんなものかは知らない」人に聞きました。「法隆寺がインド文化の影響を受けていることはご存知ですか?」「ええ、よく知っていますよ。勉強してますから。」

さて、この使えない知識を持っている人は、気の毒なことに、自分が知っていると思っています。知ってるつもり状態です。ですから、この人は、これ以上勉強することはないでしょう。これが勉強をできなくする大きな壁です。勉強したがらない理由、勉強しなくてもよいと考える理由のひとつです。

しかも、もっと悪いことに、「夏目漱石が、我が輩は猫である、という本を書いたことは知っているが、その本を読んだことがなくて内容を知らない」としても、テストで、我が輩は猫であるの作者は、という問題に、夏目漱石と書けば○がもらえるのです。なにをテストしているのでしょうか? 入試ともなれば、合格が目標であり、結果ですから、勉強した知識が使えるかどうかは、誰もまったく関心がなく、合格さえしてしまえば、それを問われることもありません。知ってるつもりにますます拍車がかかり、無知に磨きがかかります。

人が勉強するのは、自分が知らない何かを知るためです。自分は知っていると勘違いしている人は勉強しようとしませんから、その人に教えることすらできません。自分は知らない、ということを知っていれば、勉強することができ、向上することができるのです。

●使えない知識になる理由、その2

テストで点を取るための無意味な勉強が、使えない知識を作ることは分かりました。それ以外にも、教える側も熱心に教え、教えられる側も熱心に学んだとしても、使える知識になりにくい場合があります。

中学生に「方程式とはなに?」と聞いてみてください。「Xを使っている式」ではまったく分かっていません。「2x+3x=」はxを使っていますが、方程式ではないからです。「Xをだせばいいんでしょ?」という答えはまだいいほうです。しかしこれは計算技術を知っているだけで、方程式の概念を理解して使う力はないといえるでしょう。

辞書には「ある文字のとるべき数値を決定する条件を等式で表したものを、その文字に関する方程式という」とあります。難しい言い回しですので、生徒にこのまま理解させるのは困難ですが、どんなものかを、具体的に知っておくべきです。たとえば、文字xを3倍して60になるという条件で決定することを表すには、3x=60という等式を書きます。これを具体例でいうと「1こx円のりんごを3こ買ったら、60円になった。これを式にすると、3x=60。だから、1この値段は20円。」このように、具体例に置換えられることが重要です。

学校での指導は、先生によってかなり違いますので、一概にはいえませんが、教科書を見る限り、計算技術にばかり意識がいくのは、2つの理由があるように思えます。

1つ目は、定義の理解のしかたです。ある教科書には、方程式を次のように定義しています。「式のなかの文字に、ある値を代入すると成り立つ等式を、方程式という。」この定義を理解するときに、方程式が何のためにあるのか、どんなことに使われるのかを、生徒がしっかりと理解するまで説明しないと、生徒はテストを意識して、ある値のもとめ方(つまり計算の仕方)ばかりに気を取られるようになります。

2つ目は、授業のはじめに、計算に多く時間を使うということです。方程式はなにか、という説明のあと、計算の習熟に、随分と長い時間が使われます。計算ができてこそ使えると考えれば、計算が先となりますが、方程式が何かを理解できていないのであれば、学んだ計算は意味がなくなります。

方程式は難しいからそうなる、という人がいるかもしれませんが、答えをだすことばかりに気をとられて、本当の意味を理解していないことは、簡単な記号でもよくあることです。たとえば「=」です。これは、=の左辺と右辺が等しいことを意味しています。2+3=5というのは、2+3と5が等しいことを意味しています。ところが、生徒の多くは=の意味は知らずに「左辺の計算の答えを右辺に書く」とだけ理解します。これでも、小学3年生くらいまでは、テストで○をもらい続けます。しかし、文字式になって、3×x=6で突然混乱します。なぜなら、右辺にはじめから答えがあるからです。3×xをやろうにも、xが分からないので計算できません。「なにがなんだか分からない〜!」ということになります。

以前、混乱している生徒に、このことを説明するとき、「2+3=1+4」と書いたら、「違うよ。2+3=5と書かなければいけないんだよ。右には答えをかくの!」と生徒にいわれたことがあります。このあと、私の説明を聞いて、=の意味を理解した生徒は、本当にすっきりした表情をしていました。

「+」や「−」、「×」や「÷」といった記号も同様です。「÷」の意味を、いくつかに分ける、という程度にしか理解していない場合があります。「÷」は、同じ数に分けるという理解が必要なのです。しかし、計算の答えは正しく出せるので、テストで生徒の無理解を見つけるのは困難です。中学でも「関数」という言葉の定義は難しく、理解していない生徒が多いようです。

●子どもたちを正しい理解に導き、知識を使える知識に

最近の学校の教育は、教師の努力によって、大きく変わってきているようです。その努力には敬意を表したいと思いますが、現状をみるかぎり、自分たちの子どもが苦しまないように、自分たちでも子どもを守っていく必要があるでしょう。なぜなら、いまだに、正確に理解していなくても、答えさえ出せればいい点がとれて、偏差値のいい学校にいけるからです。受験対策の問題をできるだけたくさんやって、問題を解く方法をたくさん覚えることがいい点をとる近道だからであり、ほとんどの子どもがその道に迷い込むからです。

さて、皆さんは、大切な子どもの時期に、使えない知識の勉強に時間を費やすことが、無駄だとは思いませんか。私は、学校の教育が無駄だと言っているのではありません。私が問題視しているのは、勉強したことが、使えない知識になることです。ただ覚えるだけ、テストの点を取るだけ、丸暗記するだけの知識は、何の役にもたちません。大切なのは、本当に理解することです。本当に理解することこそ、人の能力を高め、学ぶことの楽しさを実感させてくれるものです。

いつのまにか「勉強は苦しくてもがんばるもの」という考えが定着して、なかなか変わりそうにありません。それもそのはずで、どこの指導も、内容を理解させて楽しくさせようとはしておらず、いい点を取らせて楽しくさせようとしているからです。いい点をとって成績が上がること、これこそ今の社会の価値観であって、それを実現することで子どもたちは認められ、勉強が楽しくなるという流れがあるからです。

しかし子どもたちが、心から勉強を楽しむには、本当に正しく理解すること、使える知識を持つことが必要です。理解することなくいい点を取った表情と、正しく理解したときの表情を比べれば、おのずと、どちらが大切かという問に対する答えがでます。そして、結果的には、正しく理解した方が成績もよくなり、社会でも成功するのです。


子どものものは子どものもの
子どもにものをあげると、多くの大人は「ものを大切にすることを教えなければならない」という使命感にかられ、「大切にするのよ」と伝えます。子どもはうれしいので「うん」と答えますが、大人の思う大切と子どもの思う大切はどこか違っています。

子どもはいろんなところへ置きますし、置き忘れます。そのくらいならいいほうですが、放り投げたり、踏みつけたり、たたいたりもします。そんな時、おもわず「こんなところは置いておくなら、すてるわよ」とか「壊すのならもうあげないわよ」と注意したりします。子どもはわけもわからず「いやだ」と抵抗します。なぜこんなことになるのでしょうか。

子どもが積み木をもらったとします。子どもは、積み木を積み木らしく使うこともありますが、無限の創造力を使って、大人が思いもよらないものに変身させようとすることがあります。ある日A君は積み木を重ねているうちに、その形が恐竜に似ていることに気づきました。A君の創造力は、既成概念をはるかに越えて、そこに恐竜の世界を投影します。そしてついには、積み木に目や角を描いて、ジュラシックパーク並みの恐竜の再現を、そこに完成します。

そこへ「ものを大切にすることを教えなければならない」という強い使命感を持つお母さんがやってきて、目を丸くしました。

「なにをやっているの、あなたは! らくがきなんかして! 積み木は描くものじゃないのよ!」

そしてお母さんは、その子が、DNAからではなく、創造力から復元した恐竜の目や角を、ぞうきんで消そうとします。ところが、その子が使ったのは油性のマジック。まったく消えません。

「なにをやっているの。消えやしないじゃない。油性のマジックは消えないのよ!どうするの?おじいちゃんにもらったばかりでしょう。」

お母さんは、お母さんがいいと思っている積み木の使い方(お母さん自身が小さい頃に教わった使い方)をまったく知らない我が子に、苛立ちを覚えます。さらには、人からもらったものは大切にしなければならないという固定観念で頭がいっぱいになり、状況がまったく見えなくなってしまいます。

子どもにあげたら、それは子どものものです。自由にさせてあげましょう。子どもに大人の価値観を押し付ければ、あげたものは子供にとってわずらわしいだけのものになります。自分がもらった立場に立ってみてください。自分なりに使っているものを、もらったものだからあれはダメこれはダメと言われれば、もらわないほうがましだと感じるでしょう。

子どもは自分にとって大切なものは、自分なりに大切にします。できるかぎり任せましょう。自分のものを自分で所有しているという実感を持つことは、生きていく上で大切な「所有する力」をつけることです。財産、仕事、地位、家庭、車など、社会では、所有するものがたくさんあります。人から与えられた価値観ではなく、自分の価値観で所有していくことが、自分の存在感をより確かなものとします。

所有の力は子どもの頃から、自分のものを自分で所有することによって培われます。自分が所有するものに関して、口うるさくいわれた子どもは、自分で所有する力が著しく失われ、社会で自立する力も失われます。

では、子どもが自分のものを自分のものとして扱えるようにするための具体的な方法を考えてみましょう。片づけの問題を解決するためには、子どもがどの程度の片づける力を持っているかを考えるところから始めます。そしてその程度にあわせていくつかのポイントをチェックしながら、自分で自分のものを管理できるようにしていきます。

●整理のしかたの問題

いつも片づけなさいと言っていませんか。そうならば、片づけ方がその子の理解の段階を超えているのです。5段収納ボックスに種類別に入れてありませんか。一度出したらお母さんしかしまえないような複雑な収納のしかたが問題です。出したところにもどせばいいといいますが、どこから出したか覚えておくのもたいへんです。片づけが得意でない子の場合は、適当に入れておく大箱でも作って何でもそこへ入れてしまってはどうでしょうか。そうすれば片づけは簡単になり、怒る気持ちも静まります。

●子どもが持っているものの量の問題

子どもの理解をはるかに越えた量のものがありませんか。もらったものを大切にするのはいいことですが、捨てられずに不要品の山を築いているのであれば問題です。

小学校2年までは、子どもの所有物を10個以下にするようにしましょう。実際、どんなにたくさん持っている子でも、普段使っているものは10個程度です。また管理できる能力も10個程度です。それを越えたら片づけられなくなり、片づけるように注意し続けなければなりません。

少ない数のものを管理することで所有する力をつけた人と、理解を超えた量のものを管理できずに注意され続けた人は、社会で歴然とした力の差がでます。

●持っているものの性質の問題

子どもに注意し続けなければならないようなものを与えていませんか。子どもの将来に責任のある人は、子どもの将来を考えたプレゼントにします。しかし子どもの将来に責任のない人は、悪気なく、子どもの喜ぶ顔を見るためだけのプレゼントにしてしまいがちです。ものによっては、プレゼントしたあとの使い方で、トラブルが絶えないものがあります。ここでは社会現象になっているテレビゲームの例で考えてみましょう。

ある家庭で、A君におじいちゃんからテレビゲームがプレゼントされました。プレゼントした瞬間、おじいちゃんは子どもから感謝され、自分の株が上がりました。でも喜ぶ顔はそこまで。翌日から、テレビゲーム以外にもゲームが始まりました。お母さんとA君の時間獲得ゲームです。

A君がテレビゲームを始めます。
お母さん「やってもいいけど、1時間にしなさい。」
それから1時間後、A君にやめる気配はありません。
お母さん「1時間たったわよ。やめるんじゃなかったの?」
A君「・………」
お母さん「やめないんなら、おじいちゃんに返すわよ。」
A君「今、途中なんだから。セーブするまでやめられないんだよ。」

こんな会話をしながら、お母さんはやっとのことでやめさせます。それから3年間、毎日のように、少しでも長い時間やろうとするA君と、時間を守らせようとするお母さんとの激しい時間獲得ゲームが行われたのでした。

ものを大切にすることや使い方を教えるのは、大切なことですが、いつまでも指示し続けなければならないものは、教育的に逆効果です。「でもテレビゲームやカードは難しい」とおっしゃるかもしれません。お気持ちはよく分かります。しかしこんなときこそ、ルールを厳しく徹底してみてはいかがでしょうか。1時間と決めたら、どんな理由があろうともやめさせ、やめなければコードを引き抜きましょう。反抗したら一週間の使用禁止とします。家族でもうし合わせて団結し、「ダメなものはダメ」であることを、毅然とした態度で示しましょう。ズルズルと長引くのは、子どもにとっても、親にとっても、回りの家族にとっても、最悪です。

●さいごに

子どものものは子どものものです。子どもが捨てたとしても、一方的に怒ってはいけません。なぜなら彼のものだからです。子どもの能力を高めたいのなら、整理のしかた、ものの量、性質に気を配り、子どもがすることに口を出さなくてもいいようにしましょう。分からないことがあれば、自分から聞いてきます。聞かずに失敗すれば、それもまた勉強です。

自分のものを自分でコントロールすることで、自信を持って、ものをコントロールできるようになります。口を出せば出すほど自分で判断する能力が低下し、指示を待つ人になります。そして自分で所有する能力が低下し、ルーズで片づけができないわりに独占欲が強く、ものに異常に固執する人になることがあります。

子どものものは子どものもの。子供の所有する権利を認めてやりましょう。


精神の応急処置
けがをした、へびにかまれた、けいれん発作がおきた、のどに異物がつまった、このような場合の応急処置はありますが、精神的にショックを受けた時の応急処置にはどんなものがあるでしょうか。

さて今回は精神的にショックを受けた時の応急処置の基本を、私の娘が転んだ時を例にあげて説明していきます。

●静かに、そしてやさしく

私のそばで折り紙をしていた娘が、突然何かを思いついたように部屋から走って出て行きました。そのとき、ドスンと激しく転んだ音がしました。いつものように泣きながら私のところにきて、私のひざの上で泣きました。どこの家でもよくある光景です。

ここで最も大切なことは、回りの人は静かにすることです。何も言う必要はありません。そしてやさしく抱いてあげることです。子どもは激しく泣きますが、好きなだけ泣かせます。

泣くことはショックによる精神的に有害なエネルギーを外部に放出する作業です。絶対にじゃまをしてはいけません。「○○ちゃんは強いから泣かないの」と言うのは有害なエネルギーを精神内に止めようとする行為です。人間は生来、精神的なきずを自分で直す力を持っています。回りの人は子どもが自力で回復しようとしているのを見守らなければなりません。

ショックが小さければ静かにして抱いてあげるだけで終わります。泣いた後はけろっとしてどこかへ行ってしまいます。

基本的処置方法
1:静かにする。
2:好きなだけ泣かせ、やさしく抱いてあげる。何も言わない。
終:表情が明るくなり、開放されたとき。

しかしこの時はなかなか泣き止みませんでした。

●何があったのかを聞いてあげる

ひざの上で泣いたり、マットの上で泣いたりして5分くらい経ちました。いつもはもう少し短い時間でなきやむのにこの時は長いので、これはどこか打ったのかなと思いましたが、外傷もないしふらふらしているわけでもないので、とりあえず様子を見ました。

10分くらいすると泣き方が弱まり、娘が「ゆきちゃんね、あそこでここを打ったの」と額を指差しました。
私は「そうだったの」と返事をしました。

この後すぐに泣きやみました。

精神的なショックは人に話すとだんだん薄らぎます。これは人に話すという行為によって「その出来事が過去におきたことで今おきているのではない」ということを認識するからです。痛みがある限りは過去のことではなく今のことなので泣き続けます。痛みが消えていれば、人に話すことによって過去のこととして認識し、開放されて表情が明るくなります。

ただし痛みが消えていても泣き続けることがあります。それは痛かった時のことをまるで今のことのように思い続ける場合です。精神が痛かった時にとどまっているといってもいいでしょう。このときこそ人に話すことで「その出来事が過去におきたことで今おきているのではない」ということを認識する必要があります。子どもが激しく泣いている間はそっとしておき、ショックによる精神的に有害なエネルギーを外部に放出させます。泣き方が弱まって話せる状態になったら「どうしたの」と聞いてあげます。そして話したら「そうだったの」と受取った返事をしてあげます。泣きながら話しますのでよく分からないかもしれませんが、かならず受取った返事をしてあげます。「もっとちゃんと話しなさい」といった言葉は禁物です。

ほとんどの人は、人が泣いているところを見ると何か言ってあげなければという衝動にかられます。しかしこれは間違いです。不必要なことは絶対にいってはいけません。逆効果です。子供の自己治癒力を信頼し見守りましょう。

基本的処置方法
1:静かにする。
2:好きなだけ泣かせ、やさしく抱いてあげる。何も言わない。
3:話せそうになったら、何があったのかを聞いてあげる。
終:表情が明るくなり、開放されたとき。

●関連した話も根気よく聞く


娘は額をちょっと打っただけだったので話すと泣き止みました。しかし痛みを伴った精神的なショックは予想以上に大きかったようです。さらに5分くらいのちに次のように話しました。

「あのね、この前、ここを蚊にさされたの」

そして娘は笑いました。これで精神的なショックの応急処置は終了です。

なぜ蚊に刺された話をしたのだろうと思われるでしょう。精神的なショックは、「犬にかまれる」とか「指を切る」といった具体的事実が過去のことがらと結びつくのではなく、「痛い感じ」とか「恐い感じ」といった感じが過去のことがらと結びつきます。したがってこの場合も、「額を打つ」という具体的事実に結びついた過去のことがらではなく、はっきりとは限定できませんが「治療しなければならないような感じ」という感じで結びついた過去のことがらを思い出したのだろうと思います。そして人に話すことで、そのことがらも過去のこととして認識され、ショックから開放されたのです。

したがって話を聞く時は、連鎖的に話し始めたことも根気よく聞いてあげる必要があります。表情が明るくなり開放されたようになったらすべての処置はおわりです。

基本的処置方法
1:静かにする。
2:好きなだけ泣かせ、やさしく抱いてあげる。何も言わない。
3:話せそうになったら、何があったのかを聞いてあげる。
4:関連した話も聞いてあげる。
終:表情が明るくなり、開放されたとき。

●悪い処置とは

それではここで、悪い見本を2つ示します。子どもが椅子につまずいて転び、泣いた時の対応です。

<哀れみ型>
「おー、おー。かわいそうになあ。こっちへおいで。おじいちゃんがよしよししてあげるからな。そうか、この椅子が転ばしたのか。おじいちゃんが蹴っといてあげる。えい!これでいいだろう。

このような対応をすると子どもは自分が悪い状態になると哀れんでもらえると思い、ちょっとしたことでも泣くようになり、自分で何もしなくなります。さらに悪いことに、椅子を悪者にするという的外れな行動をしています。このような行動を見た子どもは、大きくなっても腹が立つと物にあたるようになります。野球選手がベンチでものを蹴ったり、グローブを投げつけたりしているのがその例です。

<否定型>
親:「どうしたの。何をしたの。黙ってたら分からないでしょ。」
子ども:「わー」泣き続ける。
親:「何を泣いているの。転んだんでしょ?」
子ども:「椅子で転んだんだよー。わーー」泣き続ける。
親:「だからいったでしょ。気をつけなさいって。なんでよく見ないの。椅子があるくらいのことは分かるでしょ。」
子ども:「わーーー」
親:「泣いたってだめよ。自分が悪いんだから」
子ども:「わーーー」
親:「男の子なんだから、いいかげんに泣きやみなさい」
子ども:「あわーーー!」
親:「どうしてあんたはそうなの。もう知らないわよ」
子ども:「ぐわーーー!!!」

ひどい対応だと思われるでしょうが、昼にカノンに一人でいると、たまにカノンの前の公園からこれに近い会話が聞こえてきます。人が泣いていると親も少しパニックに陥り、このような対応に陥りやすいのです。冷静に対処するよう心がけましょう。

●最後に

最後に、偉大な教育者であるルソーの著書「エミール」の一文をご紹介します。ルソーが書いていることは私の原理とは一致しませんが、天才的な教育者としての勘と生徒の本質を見抜く洞察力によって、行動の指標を示しています。

「子供がころんだり、頭にこぶをこしらえたり、鼻血をだしたり、指を切ったりしても、わたしはあわてて子どものそばにかけよるようなことはしないで、少なくともしばらくのあいだは、落ち着いて体を動かさない。災難は起こってしまったのだ。子どもはその必然に耐えなければならない。いくらわたしがあわてても、それは子どもをいっそうおびえさせ、感受性を刺激するだけのことだろう。じつのところ、けがをしたばあい、苦しみをあたえるのは、その傷であるよりも、むしろ恐れなのだ。わたしはとにかく、そうした苦しみだけはなおしてやる。わたしがその傷をどう考えているかを見て、子どもはそれを判断することは確実だからだ。わたしが心配してかけよって、なぐさめたりあわれんだりしたら、かれはもう自分はだめだと考えるだろう。わたしが冷静にかまえていれば、子どももやがて冷静な態度をとりもどし、痛みがなくなれば、もうなおったものと考えるだろう。この時期においてこそ、人は勇気をもつことを最初に学びとり、すこしばかりの苦しみを恐れずに耐えしのんで、やがてはもっと大きな苦しみに耐えることを学びとる。」(今野一雄訳、岩波文庫)

■■睡眠不足は学習の障害
 睡眠不足は学習の大きな障壁となります。不足と付くのですから間違いなく問題であり、それは理解力を大幅に下げるという形となって現れます。
  受験勉強で寝ずに勉強した方も多いでしょう。私もそのうちの一人です。記憶を中心にした現在の受験内容ならば、それでも成果が上がるかもしれません。しかし理解において睡眠不足はきわめて効率の悪い状態となります。
 徹夜の後、人と話す時に相手が何を言っているのか分かりにくかったり、自分が時々おかしなことを言っていることに気づいたことがありませんか。睡眠不足は思考に大きな影響を及ぼすのです。
 カノンでも勉強が進まない子は、睡眠が不足していることがよくあります。学習室で指導中に睡眠不足と分かった時は、その日の指導を中止することがあります。なぜなら睡眠不足のまま勉強をすると、理解が不十分になるだけでなく、眠気をともなった大きな苦痛を感じるからです。その苦痛を繰り返していると、その苦痛が「勉強」という言葉に反応するようになり、勉強しようとするだけで眠気に襲われることになる場合があります。勉強を始める前から、あるいは勉強を始めてすぐに、眠そうになる子を見たことがありませんか。睡眠不足で勉強することには、そのような危険も潜んでいます。
 また、カノンの指導は、回答の〇×よりもむしろ、生徒の表情や態度などが理解の状態を判断する大きな要素となります。たとえば、あくびをすると理解が不十分なので、言葉や記号を説明し直さなければならないとか、ゆがんだ表情をすると実感が不足しているので具体例を示さなければならないといった基準があり、説明した後で生徒が晴れやかな表情になった時に、理解できたと判断します。ですから睡眠不足であくびをしていると、その生徒が本当に分かっているかどうか判断できないわけです。
 一般的に、「生徒があくびをする」「生徒がダラダラする」時は、生徒が不真面目でやる気がないとみなされて、生徒が注意されます。これが大きな問題です。
本当は教え方に問題があって生徒が分からない状態に陥っているのに、生徒が不真面目でやる気がないとみなせば、生徒はつまづきます。それ以上に大変なことは、この間違いをくり返すと、生徒がこの苦痛に耐えきれなくなり、場合によっては体調を崩して不登校になっていくことです。
 すべての先生は生徒の状態から理解できているかどうかを判断し、指導方法の改善に努めるべきですが、「生徒があくびをする、ダラダラする、いやそうな顔をする」といったことは生徒の勉強に対する意欲や態度の問題と判断してしまいます。しかも学校は指導要領で内容と進度が決められている上に、一斉授業を中心としているので、2〜3人があくびをしたからといって、分かるまで内容を改善していくことはできません。さらにほとんどの塾は学校を補完する指導をしているのですから、学校の進度に引きずられてしまうことが多いようです。
 カノンでは回答の〇×だけでなく、表情や態度から理解の状態を判断します。ですから寝不足の場合は判断できず、指導できなくなってしまうのです。
 十分な睡眠がとれるように配慮しましょう。自然に目が覚めるのが理想です。決まった時間に起こすとしても、起きた後すっきりしていないといけません。しばらくぼーっとしているのは不足している証拠です。
 ADHD、ADDの子は、10時間から12時間程度の睡眠時間が必要な場合が多いようです。健常児も睡眠時間を多く必要とする子がいますので、自分の子をよく観察し、十分な睡眠がとれるようにしてください。そのために寝る時間と起きる時間を決めて、規則正しい生活習慣を作ることが、学習を進めるための基本的条件です。ご家庭でのご配慮をよろしくお願いいたします。 

メディアの子どもたちへの影響
●「怖がり」といわれる子どもたち

暗いところが恐い、音に怯える、理由もなく不安になることがあるといったことは誰でもあることですが、「怖がり」といわれるほど怖がる子がいます。ほとんどは大きくなるごとに緩和していくので心配はありませんが、あまりよい精神状態ではない場合もあります。

さて、子ども達は生まれてから親や回りの人達から守られて生きてきました。よほどの事故にでも遭遇してない限り、怯えるほどの恐い体験はしていないはずです。ひょっとしたらお父さんやお母さんの怒った時の顔が一番恐かったかもしれません。にもかかわらずトイレのドアが閉められないとか一人で寝られないといったことが起こります。なぜでしょうか。

●恐怖のデータは引き出される

暗闇がこわいのは人間が狩猟をしていた頃に暗闇から猛獣が襲ってきたときの経験が無意識の中に残っているからという説明を聞いたことがありますが、それも一つです。それだけに限らず人は膨大な経験データを持って生まれてきます。人がまだ人と言えないような形をしていた頃からずっとデータは蓄積され受け継がれてきました。DNAのデータがどれほど膨大なものかを見てもその量は想像がつきます。そして誕生してのち、外界からの刺激に反応してデータのうちのいくつかが現世で必要なデータとして引き出されてくるのです。

生まれてから得るデータはほんの少しです。生来持っているデータを現世に合わせて少しずつ改良しながら、より生存的な存在となるべく人類として発展し続けるのです。

外界からの刺激に反応してデータが引き出されるとするならば、トイレの暗闇が恐いのは何百年も前にトイレで恐い思いをしたことがあるのかというとそうではありません。具体的な経験での記憶ではなく、「感じ」で記憶されています。恐い感じ、襲われそうな感じ、痛い感じ、締め付けられる感じといった「感じ」が記憶されています。なぜなら500年前に覚えた言語は現世で使うことはありませんが、言語感覚は使います。つまり環境はつぎつぎと移り変わりますから具体的な経験を蓄積していても現世で役に立つとは限らないので、感覚(感じ)のみが引き継がれて、現世においてその環境に合わせて学ぶようになっているのです。

人は生まれてからすぐに自分が置かれた環境を把握し、適応し、コントロールするために必死で学び始めます。なめたり触ったり聞いたり、ありとあらゆる方法で情報を取り込みます。それと同時に過去から蓄積してきたデータと照合して必要なものを引き出します。

●引き出したくないデータ、引き出したいデータ

さて、ここで大切なことは、膨大なデータの中で何を引き出すかということです。なんでも引き出しておいて必要なものだけを使うことができればいいのですが、そこまで思い通りにいかないのも事実です。「怖がり」というのもデータを引き出したまではいいのですが、自分でどうコントロールしていいか分からない状態にあるのです。このようなデータはたくさんあります。「刺激=反応」で動いてしまうデータで、そこに分析的な冷静さはありません。ですから怖がるなといっても本人はどうしようもないのです。このようなデータは死ぬまでどうしようもないものもあれば、成長と共に理解され、反応しなくなることもあります。

どのようなデータを引き出し、どのようなデータを引き出さない方がよいのがを考えるために、一つの例を示します。

ある家族でのできごとです。夜9時から事故をテーマとした特別番組をしていました。その日は4才の子供が眠れないといって起きていたので一緒に見ていました。その番組のなかで人が車にひき殺される様子が映し出されました。キーッ!というブレーキの音と共に人は弾き飛ばされ体はぐしゃぐしゃになって横たわっています。「ぎゃー!」という声が聞こえて後ろを見ると、4才の子どもが怯えて泣き叫んでいます。どうしたのといっても返事がありません。かなり長い時間泣いた後泣き疲れて寝てしまいました。それからというもの子どもの様子がおかしくなり、外に出るのを怖がり、大きな物音にも怯え始めました。半年くらいである程度元に戻りましたが車のような大きな物が近づくと妙におどおどした様子です。

この場合は4才の子どもが人がぐしゃぐしゃになって死んでいく様子に激しく反応しています。この子どもは今までに人が死んでいく様子を見たこともないし、ぐしゃぐしゃの死体を見たこともありません。生まれてからそれまでに経験したことがないことがらに反応しています。つまり生まれる前のデータに反応したわけです。

このようなデータを引き出す必要があるでしょうか。大人になってから引き出されても、テレビ番組の情報として処理できるはずです。しかし4才の子どもには無理です。年が小さいほど刺激の強いデータは与えるべきではありません。「感じ」のみが引き出され、それがなんなのか理解できないからです。外界の事象の客観的な判断ができるようになるまでは、穏かな気持ちで過ごせるように配慮すべきです。そして自分の存在に自信を持ち、正直に人生を楽しんでいけるように、平穏、喜び、楽しさ、情熱、幸福といった気持ちを沸き起こさせるデータを引き出さなければなりません。

●遊びの中の危険

夜9時からの番組のなかに有害なものが多いのは皆様も感じてらっしゃるでしょうが、子ども達の遊びはどうでしょうか。マンガ、テレビ、テレビゲーム、カードなどはどうでしょうか。これらの中に有害性を見つけられますか。マンガを見るとグロテスクな画風と暴力が多く見られます。テレビゲームもだんだんエスカレートしてきて相手を打ち倒すことに全力を尽くすようなものもあります。テレビも相変わらず戦う場面が多く、正義の味方もつまるところ暴力で問題を解決しています。暴力が悪いとはいいません。問題は暴力の使い方を子ども達が理解せずに使うことにあります。マンガやテレビからの刺激で正義を名乗った暴力行為への欲求が生まれてきます。ここで子供達が正義のためだけに暴力を使ってくれればいいのですが、何もないところで自分の世界にひたって一人戦っていたり、目の前にいる人を敵に見立てて攻撃を加えたり、ちょっとしたトラブルで暴力を使ったりします。子ども達は「今ここにいる状態」ではなく夢の世界で戦っているようです。

●3つの問題点

そのくらいはいいじゃないか、と考える方もいらっしゃるでしょう。しかし次の3点から考えるといいかどうかは疑問です。一つ目は自立です。夢の世界で戦っている子ども達の将来に自立が見えますか。見えないのなら問題です。二つ目は暴力です。何の理由もなく戦っている子ども達はよくトラブルを起こします。ADHDの話だと思ったら大間違い。LDや知的障害、健常児も同じです。今話題になっているきれやすい子ども達のことでもあるのです。そして三つ目が、今回のテーマになっている「恐がり」です。昼間にお化けの絵を見てもそんなに恐くないかもしれません。でも夜中に一人で見れば大人でもちょっと恐いはずです。絵なのに、です。

●「怖がり」の原因が見えないわけ

このように「怖がり」という現象と原因となることがらの間に時間差があることが、両者を結びつきにくくしています。子ども達はマンガ、テレビなどの遊びの中から恐怖に結びつく刺激を受けます。現在の遊びを見ると計り知れないほどたくさんの恐怖の刺激を受けています。そして過去のデータの中から「恐怖という感じ」を引き出してきます。でもおもしろく作ってあるのでそのときは楽しく見ています。しかし遊びから離れた時に恐怖に焦点が当てられます。暗闇にいる時、ある音を聞いた時、向こうに何がいるのか分からない時、とにかく恐怖に結びつく「感じ」を受けた時に理由のない恐怖が湧き起こってくるのです。本人に理由は分かりません。ただ「感じ」だけが湧き起こってきて具体的なことがらは付随していないことが多いのです。

●最後に

「怖がり」を作り出すデータは、ほとんどの場合、マンガ、テレビ、テレビゲームなどのメディアです。現実の世界に激しい恐怖を引き起こすものはほとんどありません。テレビでは相手が死ぬまで徹底的に打ちのめし体がぼろぼろになるまで続けます。現実の世界でそのような体験をしたお子さんはいらっしゃいますか?もちろんいらっしゃらないでしょう。体験はメディアを通して行われデータが引き出されるのです。

メディアをゼロにしなければならないほど人間の精神はやわではりませんが、毎日3時間もテレビの前に座っている子どもの精神状態がおかしくなったとしても何の不思議もないはずです。


聴く力とコミュニケーション
●音楽は今

音楽とは何でしょうか。これだけで一冊の本ができるほどの言葉ですが、簡単に言うと、音が楽しいと書きますから、「音を楽しむ」「音で楽しむ」ということです。音楽を趣味にしている人にとってもしていない人にとっても、音楽は私たちの生活になくてはならないものであり、心を豊かにしてくれます。

中学生くらいになると、ほとんどの子が自分専用のミニコンポやウォークマンを持っていて、自分の聴きたい音楽を聴くようになりました。社会人もコンサートに行ったり、自分で演奏したりすることもあります。人は本能的に音楽を欲していて、楽しむためや心を癒すために音楽を聴きます。

これほど簡単に聞けるようになった音楽は、聴きたいから聴くということであればほとんど問題ないのですが、そうはいかないところに現代の問題点があります。

●いらない音

まず朝起きてみなさんは何をしますか。起きる前に目覚し時計のけたたましい音で目が覚める人も多いと思います。目覚し時計が1つでは起きられないので3つもかけている人、自動的に目が覚める人、いろいろです。次にすることは半数以上の家庭で朝の番組を見ています。ニュースがわりに、天気予報として、出かける時間を見るために、これもいろいろな理由で見ます。出かければ道では車の音、電車に乗れば電車の轟音やアナウンスの声、町に出ればセールスの声や音楽を耳にします。子どもたちは学校へ到着します。子ども同志で話した後は長い先生の話です。発表でもしないかぎり、ひょっとしたら学校で授業を受けている約4時間のあいだ、先生の声を一方的に聞きながら黙って過ごしているかもしれません。ですから休み時間になると怒涛のように話し始め、動き始めます。家に帰ればれテレビ、ファミコン、ラジカセの音が鳴り続けます。人によってはテレビを見ながら寝る人もいます。これはどこの家庭でもよくある一面でしょう。

人が情報を伝えコミュニケーションするためにメディアを使い、それが私たちの生活を便利なものにしていることは事実です。同時にそれらが、いらない音もたくさん聞く原因になっています。

その原因の一つが、一家団欒の場にテレビがあることでしょう。狭い日本の住宅事情からすると置く場所がなく、誰かがテレビを見ると他の見たくない人も見るわけです。兄がポケモンを見れば妹も自動的に見るというように、見たい見たくない、見せたい見せたくないという考えがなかなか成り立ちません。

大人が好きな番組を見るのは害が少ないので、おじいちゃんが水戸黄門を見ているときに「目が悪くなるから30分にしておきましょう。」なんて残酷なことはいいません。しかしテレビの前で寝ている赤ちゃんを抱っこしているとすれば、赤ちゃんにとっては有害になってしまいます。自分が見ている立場で考えても、そばでテレビの音よりも大きな声でしゃべられるとうるさいと感じます。

いらない音を聞くことになる原因は他にもたくさんありますが、いらない音がたくさんあると人はストレスを感じます。

喫茶店に入ったときに、有線放送を流しながらテレビをつけているのを見たことがありませんか。どちらもほとんど同じくらいの音量です。それでも聞き分けて楽しんでいる人もいますが、いらいらさせて客の回転をよくするための策のようです。ながら勉強をしていていらいらしたことはありませんか。私も深夜放送を聞いて受験勉強したひとりですが、さみしさを紛らわしていただけで、勉強の能率としては静かに勉強して夜は寝た方がよかったと思います。何かを覚えようとしているときに、周りで誰かが話をしていると覚えにくいものです。図書室で本を読んでいるときに、話をしている人がいればじゃまになります。クラシック音楽のコンサートで後の人がひそひそ声で話しをしているのがじゃまになって、感動するよりも怒りの方が大きくなった経験があります。寝ようとしたときに、物音が気になることはありませんか。たとえ寝ていたとしてもテレビの音が耳にはいると安眠を妨害します。子どもの寝ているそばでテレビを見るのは子どもの精神状態に悪い影響を与えるでしょう。

そんな環境でも生活できるように、我々は耳についている雑音を取り除くフィルターをフル回転させており、時には大切な音も取り除いてしまっています。

●人間の音を選ぶ力

静かに耳を澄ましてください。できれば畳の上に仰向けに寝て、体の力を抜き、回りの音だけに集中してみてください。どんな音が聞こえますか。車の音、鳥の鳴く声、工事の音、風の音、畳と自分の服がすれる音、心臓の音、息の音。聴こうとしないかぎり聞こえなかった音が聞こえ、今まで気づかなかった自分を取り巻く外界と自分自身が見えてきます。

これが外界とのコミュニケーションであり自分自身とのコミュニケーションです。外界が発信する音を自分が受取り外界と自分とのコミュニケーションが成立し、自分の体が発信する音を自分が受取り自分の体と自分とのコミュニケーションが成立します。現代は音が与えられ続け自分から聴こうとすることが少ないために、なかなか気づきにくい世界です。

さてこれだけ多くの音が耳に入っていながら、なぜ普段私たちはほとんど聞いていないのでしょうか。これは私たちが耳に入ってくる音の中から重要な音を選別し、その音に集中しているからです。耳に雑音を取り除くフィルターがついているのと同じです。

この音を選別するという能力はとても不思議です。何をもとにして選別しているのでしょうか。生まれてからの、いや生前からの経験をもとに、入ってくる情報をふるいにかけ、重要なものだけを思考の材料にしているのでしょう。

もしこの力が欠けていたとしたら、話しかけても振り向くこともなく、聞こえる音の重要性に関係なく反応して、落ち着きのない人に見えるはずです。

私たちが指導している子どもたちの中には、呼びかけに反応しにくいと同時に、動き回る子どもがいます。そのうちの何人かは、何らかの障害で、耳に入ってくる情報のうちから重要なものを選別できず、私たちが聞いてほしいと思う情報とは違う情報に気をとられて、私たちには違和感がある行動をしてしまいます。

そのような場合は、外界からの情報に注意を向け、その中から重要な情報を選別する力を育てることが必要です。もちろんそれには情報の内容の理解がともなわなければなりません。ですから音に対して集中できる静かな環境を作り、理解できる情報を発信することが私たちの課題となるわけです。

●音のない音を聴く

自分の好きな曲を聴いて終わったとき皆さんはどうしますか。CDで聴いているときに、終わりきらないうちに止めてしまいますか、それとも余韻を楽しみますか。コンサートで演奏が終わったときにすぐに拍手をしますか、それとも余韻を楽しみますか。

これには国民性がよく出るようで、ラテン系の国民は曲が終わったらすぐに拍手しますし、ドイツ人は終わったあと2,3秒の間があることが多いようです。日本人はというと、理由は分かりませんが、すぐに拍手します。

さて、皆さんが自分の好きな曲を聴いて終わるときに、音が消え去る最後まで聴き続けてみてください。そして、そのまま数秒じっとしていてください。消え入る音に集中し、最後の音が消え去るのを追かけます。きっと音がなくなったあとでも聴いている自分に気づくはずです。音があるないの選別をしているのです。そしてひょっとしたらその数秒の内に、その曲を回想するかもしれません。音がないときに何かを聴こうとすることが、回想を生み出すことがあるのです。

曲を反復するときの短い空白も大切な音楽の空間です。その空白が次の音を導き出すからです。絵画でも白く残したところが大切で、それも絵の一部です。音楽でも音のない時間が音楽のある時間であり、集中力がとても高まる瞬間なのです。

このように音楽の音がない瞬間まで音を追かけ集中することは、音を聴く力、選別する力を高めるのにとても有効です。

●音を創造する力

私たちは耳に入ってくる音を選別するだけでなく、音を創造しています。
バッハの作品の中にバイオリン一台で演奏する曲があります。バイオリンは旋律を担当してピアノが伴奏すると思われる方も多いでしょうが、バッハはこの楽器に旋律も伴奏もすべてをやらせました。しかしバイオリンで和音を弾くには限界がありますので、バッハは必要最小限のバイオリンの音で人に音を創造させるような音楽を作ったのです。私たちはバッハが創造させようとした音を創造する力を持っています。

鼻歌を歌っているときに、その伴奏を頭の中で奏でていることはありませんか。これは伴奏を思い起こしているだけかもしれませんが、ある音からそれに続く音や関連する音を創造する力をみんな持っています。

人との会話の中で、不足する内容を想像することもあります。音から何が起こっているかを予測したり、人の話からイメージを呼び起こして理解を補ったりしています。脳の使い方は違うとしても、それと同じように音楽では音を創造しながら聴いているのです。

この「重要な音だけを選別する力」と「不足する音を創造する力」は社会生活を送る上でとても重要な役割を持っています。

●聞く力とコミュニケーション

静かに耳を澄ますといろんな音が聞こえ、それが外界とのコミュニケーションや自分とのコミュニケーションとなります。つまりコミュニケーションをしていくには聴く力がとても重要になってきます。

プロの音楽家の中で、本当に優れた音楽家は音を聴く力を持っている人です。自分だけの音に没頭する人は、音楽も自己満足的で、聴いている人を豊かにすることはできません。

優れた演奏家と合奏をするときは、相手も自分もお互いによく音を聴いていることを実感します。自分が少し音を変えるとそれに反応してきます。音のコミュニケーションをとっているからです。音をよく聴くということはコミュニケーション能力を向上させるということでもあります。

ジャズプレイヤーは自分のアドリブ(即興演奏)だけに夢中になっているように見えますが、優れたプレイヤーは実によく人の音を聴いています。私の好きなジャズプレイヤーにチック・コリアという人がいます。この人のグループの演奏を聴くたびに、チック・コリアがいつもグループ全体に神経を行き届かせてコントロールしていることに驚かされます。これはチック・コリアという人が自分の音だけでなくグループ全体の音を聴く力があるからです。グループ全体が発信した音を受け取り、自分からも発信するコミュニケーション能力が高いということです。

サッカー選手でも優れた選手は自分のことだけでなく、全体のことが見えていて、その中で自分の最善のポジションを見つけ出します。自分がボールを追い、ボールを蹴ることだけに夢中になる人はめちゃくちゃなプレーをします。これは技術的な高さだけでなく、まるで宙に浮いて自分を含めたその場を上から眺めているように、外界からの観察力があるのです。

自分から外界の音を聴き、自分のポジションを見つけ、周囲との関連を考えることが社会的活動のベースとなっており、これに困難があると社会生活にも困難を感じることになります。

私たちが子どもたちに音楽を指導する目的は、技術的なことではなく、音を通して外界を把握し、外界とのコミュニケーションが取れるようにしていくことです。聴く力を養うということは、自分の置かれた環境に注意を向け、その中でとるべき自分の行動を考えることができるようになるということなのです。

●恐い音楽は少な目に

年齢は個人差があるので決められませんが、約10才ぐらいまでは恐怖心を呼び起こす音楽は少な目の方がいいでしょう。

皆さんはテレビや映画で恐い思いをしたことはありませんか。とくに小さい頃は、恐くて眠れなくなるような経験があると思います。私も小さい頃はどんな番組でも見ましたから、随分と恐い思いをしました。恐い思いをする映像にはかならず恐い音楽がついています。一般的に恐い映像の悪影響には関心が持たれ、恐い音楽の悪影響にはあまり関心が持たれないようですが、実際には恐い音楽は人間を怯えさせるのに十分な力を持っています。

一般によいといわれている音楽でも、年齢によっては問題があります。娘が3才の時にバッハのトッカータとフーガを聴かせたことがあります。「はなからぎゅーにゅー」で子供達がよく知っているので聞かせてみたのですが、娘はとても恐がりました。それもそのはずで、トッカータとフーガは不協和音の連続で大人でも圧倒されるほどの緊張感を持つ曲です。

音楽療法でモーツアルトやバッハがよいといわれていても、すべての曲がすべての年齢の人によいというわけではないのです。

しかしよい音楽を見つけるのは難しいことです。これについてはいずれ詳しい話をしていきたいと思いますが、当面は子供に対して配慮のない恐怖心を呼び起こすような音楽はさけ、心が落ち着くような童謡やクラシック音楽を選ぶようにしたほうがよいでしょう。

●最後に

子どもは生まれながらの音楽家です。どんな音でも聴こうとし、叩いたり引っ掻いたりしていろんな音を作ろうとします。この音楽家を育てるのは私たち大人であり、いい音楽を奏でる音楽家に育てるのも、音が出せない人にしてしまうのも私たち次第といえるでしょう。

いい音楽家を育てるためには、いい音やいい音楽を聴かせることが最も大切なことです。しかし私たちの生活の中にはいらない音が多すぎるのです。このことに無頓着であれば知らず知らずのうちに神経がむしばまれていくこともあるでしょう。私たちの大切な子どもたちが、聞かされることに慣れてしまい、聴く力が失われてしまわないように配慮してやりたいものです。そのためにも、技術を教える音楽教育ではなく、音を聴く力と音楽を楽しむ心を教える音楽教育が必要になります。

そして音楽による治癒力によって、障害があってもなくても、心が開放されて外界とのコミュニケーションが豊かになり、いきいきとした生活が送れるようになることを期待します。障害はいくつかの要因が重なり合っていますので、音楽の治癒力だけで解決するとは言えないものの、よい方向に向かわせる効果は十分にあります。ご家庭での実践もあれば、きっと明確な成果があることでしょう。

●家ですぐにできる音楽教育

・ながらはやめ、聴くときは聴く、見るときは見るようにする。
・音や音楽のない静かな時間を持つ。静かな時間によって家族のコミュニケーションも増えます。
・テレビをつけている時間を減らす。寂しいからといって見ていないのにつけておくのはやめる。
・騒音の多い場所に行くのをさける。
・大きな音をたてない。
・電子楽器ではなく、自然の素材で作られた楽器を使う。
・楽器にかぎらず、自然な音を聴く。机をたたく音、靴の音、鳥の声、風の音など。


精神とその表現
●幼児期の精神活動の基礎作り

要旨/・子どもは大人と同じ精神を持っている。

*ここでの精神とは自分自身のことで、意志や心の強さなどを表現するもととなっているものです。
・幼児は精神の表現力を持つために、感性を全開して情報を吸収し、基礎を作る。

子どもは生まれたときからすでに大人と同じ精神を持っています。お母さんのおっぱいを大声で泣いて求め、うれしいと笑い、おしっこで気持ち悪いとまた大声で泣きます。自分の意志は大人以上にはっきりしています。

幼児期には完全な精神は持っていてもその表現力は未熟ですから、その表現方法を学ぶために、五感を使って情報を収集し、自分のものにしていきます。危険であろうとなかろうと関係なく興味のあるものにはすべて手を出し、すべての感覚を受け入れていきます。見て、聞いて、なめまわして、触って、臭って、壊してすべての物を確かめていくのです。このすべての物に興味を抱き、すべての感覚を受け入れるのが幼児期であるとすれば、これほど重要な時期はないといえるでしょう。自分の感性で確かめ自分で見極めて覚え、自分の精神活動の基礎としていく。そして様々な経験をするうちに、自分自身を表現する方法を身につけ、知識として形成する準備をしていきます。

自分の精神を表現しはじめると人にはそれが意志の強さや心の優しさのように感じられます。「3才になって自分のほしいものがいえるようになってきた」というとすれば、それは言葉を覚えたということです。受取る大人にとっては意志がはっきりしてきたと受取ることができるかもしれませんが、2才の頃から自分のほしいものには突進し、危険だからと取り上げられたら大声でないて、自分の意志を何の抵抗もなく示していたことを思い起こせば、表現の仕方が変わったととらえたほうがいいでしょう。

こうして年齢が上がれば上がるほど、何でも取り入れる開かれた感性から、知識で判断し選別する思考へと変化し、表現も泣きわめくような表現から少しずつ言葉や身振りを使った表現に変化していきます。

●年齢とともに育つもの

要旨/・肉体、知識・技術、社会性は年齢とともに育ち、精神は表現力を増していく。

では幼児期を経て、小学校低学年になった子どもたちはどうなっているでしょうか。この時期は十分整理されていない知識を使って少しずつ自分で判断し始めているものの、まだ開かれた感覚を使って多くの自然な経験を積み重ねて基礎を築いていきます。そして多くのものを受け入れ、模倣し、創造します。

幼児期から小学校低学年で成長しているのがはっきりする点は3つあります。ひとつは体が大きくなりしっかりとした動きができることです。二つ目に人の動きや物の様子を五感で感じ取って、かなり模倣できるようになっていることです。三つ目に、外界の様子をとらえ、自分がどのように行動すればよいかの判断を少しずつするようになっていることです。

大人になるとどうでしょうか。大人になると知識は整理され、体系的な学習も行い、専門的に深く研究するようになります。そして社会の中で一人の自立した人間として生活していきます。

子どもから大人へと成長しているのがはっきりする点も3つあります。肉体的な強さ、豊富な知識と高度な技術、そして経験に支えられた社会性です。精神の表現力も豊かになり、一人の人間として尊敬されるようにもなります。

肉体は生まれてからある年齢まで成長を続けます。知識と技術も持たずに生まれます(本能的に持って生まれるものは別として)。江戸時代に生まれてパソコンができても意味がありませんから、生まれたときに必要とする知識や技術は生まれてから学ぶわけです。社会性も同じで、縄文時代と現代ではまるで違うでしょうし、国によっても違いますから、生まれた時と場所に合わせて学びます。

そして生まれた時から完全な精神は、大人になるにしたがって、学んだことを表現として使えるようになり、感性に加えて知識を表現に使い始めていきます。大人になるにしたがって感性が磨かれると言われますが、どういうことでしょうか。それは感性が育つということではなく、持って生まれた感性がその時代に適合していくということだと考えるべきだと思います。

●危険な知識のつめこみ

要旨/・精神の表現力が育たないうちに知識をつめこむと実感を持って受け入れられず、理解できない。

幼児期から小学校の低学年は精神の表現力の基礎を築く時期です。この時期に、知識ばかりを与えすぎて、精神の表現力が育たないと、根が十分に伸びる前に植物の葉を大きくするようなもので、強い風がふけば、根っこごと吹き飛ばされてしまうような危険にさらされます。しかも幹も十分な太さがありませんから、折れそうになるでしょう。

子どもの勉強嫌いは、その危険を身を持って体験している子供達の警鐘のように思えます。国語でも算数でも図工でも同じことです。多くの経験を伴った感覚が身につき、精神の表現力がついてこそ、知識を実感を持って受け入れて自分のものとし、表現として使うことができるようになります。それができないうちから知識を与えると、ただ記号として覚えるだけになり、テストで答えは書けるが、その知識が使えない人間になっていくわけです。言葉は人とのコミュニケーションを通して実感あるものとして覚えていかなければなりません。数も生活の中で体験することから実感を持つことができます。これが不足している段階で計算に入ると実感のない数字の連続に見えてしまうのです。

●固定観念の拘束

要旨/・固定観念はマイナスの感情をともなった考えとして蓄積され、本当の姿が見えなくなる。

幼児期から幼年期にかけての子どもたちの精神はまさに純粋で、人間の本来の姿を映し出しているかのようです。人間のあるべき姿といってもよいほどでしょう。美しいものを美しいといい、おいしいものをおいしいという。人には優しく、でも自分の願望は譲るところがありません。

この精神の表現は年齢とともに変化していきます。自然に感じる心で正しく受取ったものは知識として分析的にファイルされます。一方自然に感じる心が何らかの理由でゆがめられ、マイナスの感情をともなった考えとして蓄積されるものがあります。これが固定観念であり、動かしがたい不自由を受ける原因です。

固定観念の定義を辞書でひくと「そうだと思いこんで、変えられない考え」とあります。「勉強は苦しくてもがんばるもの」「学歴が人生を左右する」「お金がなければ生きていけない」「子どもには教えてやらなければならない」「子どもは素直な方がいい」といった考えは、ある時代には正統的であまり疑いを持たれません。それはある面で正しく、モットーとしている人もいます。しかしそのような考えが固定観念となって、現実が見えなくなり、目の前で起こっていることが理解できなくなると、それが当てはまらない場合でも、その考えにとらわれてしまい、誰が見てもおかしく思えることをしてしまうようになります。

せっかく楽しく理科を勉強していた子どもに、やる気があるのだからもっとやらせてやろうと思い、問題集を毎日することを義務づけさせたらどうでしょうか。収入は少ないけれども自分が心からやりたい仕事をしている人に、お金がなければ生きていけないのだからあんな収入じゃね、というとしたらどうでしょうか。自分で楽しく工作している子どものそばへいって、あーしたほうがいい、こーしたほうがいいと言い続けている大人はどうでしょうか。大人の考えに対して自分の考えをしっかり言うことができた子どもに、素直じゃない、生意気だと言う大人をどう思いますか。固定観念があると、現実に目の前で起こっていることが見えなくなり、過去に固定された考えで行動してしまうようになるのです。

コンクールで金賞を取った絵を見ると、評価の観点があります。詳しくは知りませんが、たぶん夏休みがテーマなら虫やプールや海などの夏を感じさせる内容で、画用紙からはみ出さんばかりの元気よさで、結構細かく観察してある、ということでしょうか。それはそれでいい絵です。評価されてもいいでしょう。問題はそれがいい絵の基準になって、そのように描けない子は絵が下手な子という評価を下したり、評価されるためにそのように描くように指導したりする人がいることにあります。

私が中学生の時、美術の先生が、「私はこういう絵にいい点をつける」と説明してくれました。最初の先生はこうです。「絵は一生懸命描きなさい。きれいに描くよりも一生懸命かいている絵がいい。」といいながら、壁にかけてある絵を見ながらどのような絵がいいかを教えてくれました。金賞という札がついている絵を指して、この絵はきれいだが一生懸命ではないので私は評価しないと言っていました。その時は一生懸命に細かく描くように心がけました。次の先生は若い先生で、「決まった通りに描くのではなく自由に描きなさい。」ということでした。みんな自由に絵を描き、そして絵に何段階かの評価がついていました。誰にもその評価の意味は分かりません。しかし学生の時はそれを疑問にも思わず受け入れてしまいました。そういうものなのだと。

私が小学生の時です。公園の木の幹を緑色にぬりました。先生は木の幹は茶色だから茶色にしなさいといい、私は緑の幹もあると主張して平行線をたどったことがあります。海を描いたときのことです。私は深緑でかきましたが、先生は、海は青だといいました。岡山県生まれの私は、海といえば瀬戸内海であり、深緑なのです。ですから青い海といわれても、どこが青いんだと思っていました。でもテレビで見る海は青です。その頃の私にとっては自分の目で見た海の色が、海の色だったわけです。

この話は単に先生が緑色の幹や深緑の海を知らなかっただけかもしれません。しかし心で感じる前に、自分の目で本当の姿を見る前に、これはこうだと決まっていると思っていることがたくさんありませんか。海は青い、木は茶色だと。

●どのように子どもに接するか

要旨/・本来持っている心や興味・関心を育てるにはよい環境作りが大切。
・大人の固定観念を与えない。
・知識を与える前に十分な体験をして、精神が表現できるように基礎を築くことが大切。
・精神の表現力がつくように子供の感性を大切にし、環境を整えよう。

<心や興味・関心を育てること>
心を育てるという言い方をしますが、これは本来持って生まれた心を失わせず、正しく表現する方法を教えるということになります。子どもは優しさを表現するのは上手です。ところが乱暴な表現(大人やテレビやマンガ本などから入る情報)を見て模倣し、いつのまにか優しい表現よりも乱暴な表現の方が多くなり、小学校高学年になると乱暴な言葉に自分を感じはじめさえする子もいます。

これにはちょっとした法則があります。それは強い存在の模倣をするということです。例を見てみましょう。ある子が2つ目のアイスクリームを食べようとしたときに、お母さんが「さっきも食べたからだめ!」と怒り、その子は食べるのをやめたとします。強い立場は母親です。今度はその子の妹が2つ目のアイスクリームを食べようとしました。その子は妹に「さっきも食べたからだめ!」と怒ります。強い立場を模倣したのです。またある子がテレビを見ていて正義の味方の主人公が「やるっきゃねーよ」といっていれば、その子はいつのまにか「やるっきゃねーよ」といっていたりします。おもしろいことによく負ける悪役の模倣をする子はあまりいません。強い存在の模倣をするのです。

ですから親が子どもに強い立場を示すときは気をつけなければなりません。大声で怒って示せば子どもは大声で怒るようになりますし、ものと引き換えに言うことを聞かせ続ければ、いずれ子どもがあなたに交換条件を突きつける時がきます。学校の先生の態度にも同様のことが言えます。

やさしい心を子どもは生まれながらにして持っています。しかし表現の方法はよく知りません。大人がやさしい心を子どもの前で示せば、子どもはそれを模倣します。それが子どもの表現になるのです。

興味・関心を育てるということも同様です。生まれながらに持っているのですから、つぶさないように気をつければいいだけです。育てるということは、本来持っている力を発揮できるように環境を整えてあげるということです。そして成長するにしたがって、その段階に応じた技術の指導を行うということです。子どもはどんな物にでも興味・関心を抱きます。危険かどうかも関係ありません。自分の体に害を及ぼすものでも興味を持ちます。害があるかどうかも知らないのですから当然です。ですから大人が責任を持って危険から守ってやらなければならないのです。

<固定観念を与えない>

子どもたちは固定観念を「正しい」こととして与えられてしまいます。では、どうやって与えられるのでしょうか。早期教育によって何らかの基準を与えられる子もいるでしょう。また家族やテレビもいろんな情報を与えます。保育園に入れば、そこでまたいろんな「正しい」が与えられます。小学校へ行けば、「正しい」の一方的な連続となります。絵はどのような絵がいいのでしょうか。音楽はどのように歌えばいいのでしょうか。国語はどのように読めばいいのでしょうか。算数はどのように答えを書けばいいのでしょうか。

これらの答えを子どもに与えたときに、精神の表現の基礎が十分にできていない子は、十分に「正しい」ことが感じられずに、ただ覚えるだけに陥ります。それを毎日連続していくと、自分で正しいかどうかを判断することをやめ、一方的に受け入れるだけになっていきます。ただ覚え、受け入れるだけです。そしてなぜかも分からず、そうなのだという考えとして固定され、あたかも自分がそう感じているかのような錯覚に陥ります。覚えた答えはただ覚えただけですから、テストの答えとして書くことはできますが、自分で使うことはできません。指示を待つおとなしい子供ができあがりました。一見素直に見えますが、自ら学ぼうとしたり、正しい答えを見つけ出そうとしたりすることのない受け身の子供です。

ただ覚えるだけを拒否する子どももいます。いやだ、やらない、やりたくないの連続ですが、子どもとしては自然な行為です。根がまだ十分伸びていない自分に大きな葉をつけさそうとする行為に対して、自分の生存を守ろうとする行為です。

<子どもの感性を大切にし、環境を整える>

絵を描いた子どもが、自分の絵を批判されたときにどのような気持ちになるでしょうか。自分が正しいと確信し、完成させた絵に対して、高い評価ならまだしも、低い評価を下されたとしたら、たとえ前向きな表現として「もっとがんばろう」という表現だとしても、子どもは困惑してしまうでしょう。自由に自分を表現する世界で自分の思う通りにしたことが、否定される瞬間です。きっと自分自身が否定されたような感じになり、どうしていいか分からず、うろたえるでしょう。何が悪くて、そんな評価をされたのかまったく分からないはずです。まだ知識を問う他の教科の方がショックは少ないのではないかと思います。

仮にその理由を説明しても、子どもが理解できるような説明ができるでしょうか。「もっと元気よく」「いろんな色を使って」「もっと明るく」「よく見て」このような指示で分かる子どもがどのくらいいるでしょうか。「本物とちがうでしょ」「みんなが描いているのをよく見て」「これでいい点がつくと思うの」こんな言い方になると、子どもは自分自身が失われたような気がしてきます。自分が正しいと思ったものが否定され、他人の感性に合わせるように指定されているのですから。そしてだんだん絵が描けなくなっていきます。
子どものうちは、少なくとも小学校低学年までは、子どもたちが描ける環境を大人が整えた上で、自由に描かせましょう。画用紙の上に筆を置いたときの色彩、別の色と混ざったときの予期せぬ色の変化、筆を洗った時の水の色の美しさ、画用紙の上で水がもたらす自然で流動的な形状、様々な体験を繰り返す中から連想され、創造され、新しい世界が生まれていきます。

絵を描くことに慣れていない子どもでも、少したつと自分の感性で表現し始める瞬間があります。子どものするどい感性で描かれたものは、しばしば大人を驚かせます。子どもの目で、心で見たまま、感性で感じたままを描かせましょう。そして大人の目で批判するのはやめましょう。なぜなら子どもにはそう見えているのですから。

ここで言っていることは、子どもは感性を十分に使って表現してからでないと、技術ばかりにとらわれて、感性が表現できなくなるということです。十分に根をはって、しっかりとした幹ができ、それから熟した実をつけるのです。

何も考えずに描けばよいという意味ではありません。芸術は感性だけでなく、技術や考えや主張も表現のひとつとなっているわけですから、技術を磨き、考えて描くことも必要になっていきます。

自分が自由に描けるという自信と描こうという意欲を十分に持つことができたら、少しずつ技術的な指導に入っていきます。体も少しずつ思い通りに動くようになっていますし、考えて描くということも少しずつできるようになっています。

●最後に

人間は物質として生まれ、だんだん人間らしい精神を持っていくのではありません。生まれたときには完全な精神を持ち、大人になるにしたがってその表現力を持つようになるのです。

知識や技術ばかりを与えるとその精神が押え込まれて、決まったことはできるが、自分が表現できない人間に育っていきます。ですから精神を大切にし、そこから意志の力や心の豊かさが表現できるように導いてやることが大切です。

私たちがすべきことは、子ども達に与え、指示することよりも、環境を整え、子ども達が自分で学べるようにしていくことです。子ども達の学習意欲は人生の中で最大値を示しています。カノンがその最大値を引き出してくれることをいつも願っています。


■■自閉傾向のある子の理解のために

1.はじめに

 今回は自閉症及びその周辺の子どもたちに関する内容です。その子どもたちの表記にここでは「自閉傾向児」という言葉を使わせていただきます。自閉傾向児という言葉は一般的な障害名ではありません。診断を受けた時に「自閉傾向がある」というあいまいな表現で使われることはあります。
 本来は適正な判定基準に基づいた用語が用いられるべきかもしれませんが、ここでは逆に自閉症だけでなく、自閉傾向があると言われるような、厳密には自閉症と言えないような周辺の子どもたちにも関連した内容となっているため、あえて範囲を広げて「自閉傾向児」という言葉にしました。専門書を見ると、広汎性発達障害や自閉症圏障害が同義語と言えないこともないと思えましたが、カノンの保護者の方々には自閉傾向という言葉の方が分かりやすいと思われたので、「自閉傾向児」としました。したがって、高機能自閉症やアスペルガー症候群も含まれます。
 本来カノンでは障害名は使わず、100人いれば100通りの特徴があるととらえています。したがって「自閉傾向児」という言葉を使うことはカノンの指導と一致していないことになりますが、文章を分かりやすくするために、あえてこの言葉を採用しました。
 また、自閉傾向児の正確な特徴をまとめるのではなく、なぜそうなるのか、そして周囲の人達がどのように考えどのように接すればよいのかについて考えていくことにします。自分の子どもに該当する箇所から保護者の皆さまの何らかの気づきになることがあれば幸いです。

2.原因の一つは健常者のコミュニケーション不足

 自閉傾向児は様々な特徴をもっています。そしてその特徴の原因についても、脳の問題とする説や精神的問題とする説など、様々な説があります。
 これらの説は大変重要な意味をもっていて、今後の研究に期待したいところですが、むしろ医学や障害学の領域に近く、今の研究段階では脳や精神の問題を原因と位置づけても、結局のところ教育方法には結びつきにくいように思われます。したがって教育としては別のポイントを原因として定めることで、私たちが取り組まなければならない教育方法が見えてくるのではないかと考えています。
 カノンでは、自閉傾向児はコミュニケーション力が低いために様々な問題を抱えていると考えて指導していきます。
 自閉症には「自閉」という言葉が使われていますが、自分を閉ざしているとは思えません。むしろ健常者のコミュニケーションが複雑すぎて分かりにくいので、対応できなかったり避けていたりするだけではないかと思えます。

  保護者の方なら特によくご理解いただけると思いますが、毎日一緒に過ごしている自分の子なので、行動は特徴があっても考えはある程度理解し合えます。しかし外に出て他人の中に入ると、周りとの接触が難しく孤立してしまいます。自分の子なのによく分からないと感じる時の多くは、学校のようなマイノリティが不利を感じる場所に置かれた時です。そこで他の子と同じように行動してくれないので、なぜだろうと不思議になるのです。社会生活に問題がある場合に「障害がある」と言われるのですから、学校のような社会を中心に考えれば当然問題を感じてしまいます。
 このような問題が生じる原因は明らかにコミュニケーション力不足です。一般的には自閉傾向児のコミュニケーション力不足と考えられがちですが、これは間違いで、本当は自閉傾向児が他の人とコミュニケーションがうまくいかないように、健常者も自閉傾向児とのコミュニケーションがうまくいかないということでもあります。つまり自閉傾向児から見ると、健常者は自閉傾向児に対するコミュニケーション力不足ということです。

 私は幸い毎日子どもたちと接しているので、顔が合っただけでお互いが理解し合えているという実感をもつことがあります。仲のいい友人と会った時のあの実感です。多くを語らなくともアイコンタクトとちょっとした身振りで意思を伝えられることが多くなっています。よく分からない時は、単に考え方の違いであって障害によるものとは思えません。このように先生側のコミュニケーション力が向上していくと、自閉傾向児とも目が合う頻度が高くなり、呼びかけに対する反応もよくなります。
  最終的にはこれをノウハウとしてまとめ、社会全体が自閉傾向児に対するコミュニケーション力を向上させれば、自閉傾向児が社会参加しやすくなると考えています。
 一方自閉傾向児もコミュニケーション力を向上させなければなりません。自閉は直らないといった意見はとりあえずどこかに置いておきましょう。適した教育を継続的に行うことが大切です。コミュニケーション力が向上すれば、確実に健常者とうまくやっていけるようになり、社会の中で働けるようになっていきます。

3.感覚刺激への弱さ

 自閉傾向児が、家の外を大きな音でバイクが通ったり、救急車が通ったり、ヘリコプターが飛んでいたりすると、窓際に立って見ていることがよくあります。また大声を出す人がいると極端にうるさいと感じたり、スーパーのようなざわざわしている所に行ったあとは落ち着きがなかったりすることもあります。テレビゲームを長時間やった後、ずっとその世界の中にいたり、コマーシャルにはまり込んだりすることもあります。
 自閉傾向児でなくとも誰でも少なからずあることで、雷の音が嫌だったり、黒板とチョークのこすれる音が嫌だったりすることもありますし、好きな音楽が頭から離れなくなっていつの間にか鼻唄で歌っていることもあります。スーパーで走り回っている子どもも珍しくありません
 しかし、自閉傾向児は明らかに感覚刺激に対して反応する頻度が高く、過敏とも言えるほどです
 そこで、なぜ感覚刺激に対して頻繁に反応するのか、そして周りの人達はどのような配慮をした方がよいのかについて考えてみましょう。

 まずは次の4つの視点から見ていきます。

 (1)  コミュニケーション力の低さによって、外界からの刺激を予測できない
 (2)  コミュニケーション力の低さによって、外界からの情報の優先順位がつきにくい
 (3)  感覚刺激に過敏に反応する
 (4)  過去に受けた感覚刺激が必要のない時にも出てくる

「わ!!」と後ろから驚かされて、心臓が飛び出しそうなほどびっくりしたことがありませんか。まったく予期しなかったことは本当に驚きます。しかし誰かが誰かを驚かしている様子を見ても驚きません。また「これから驚かすよ」と言われて「わ !!」と言われても、驚くことはありません。これは人の行動を予測することができるからです。
  夜中にし〜んとしている時、風で戸が「コトッ」と音がしてひやっとしたことはありませんか。車に後ろで突然クラクションを鳴らされて驚いたことはありませんか。
  このように人は予期しなかった音がすると、それが大きな音でなくても驚きます。ですから、その環境を把握し、そこで何があるかを予測しようとします。たとえば部屋にいるときはドアから誰かが入ってくるかもしれないと心のどこかで予測していますし、人が後ろにいるときは話しかけられるかもしれないとか、後ろを歩くかもしれないというような予測をしています。車で走っている時は、前の車がブレーキを踏むかもしれないとか、交差点で横から車が出てくるかもしれないという予測をしています。
  テレビをつけた時は音が出ると思っています。電話は鳴るものだと思っていますし、授業が始まる時は先生が入ってくると思っています。このような予測はすべて人や物の動きの予測をしているのであり、特に人の動きの予測は人とのコミュニケーション力が高いほど予測することができ、低いほど予測することができません。人の考えを理解できるからこそ人がどう動くかを理解することができ、先の予測もすることができます。
  誰でも予測が外れると驚きます。ドアから入ってくるはずのない人が入ってきた時、テレビをつけたら思っていたより大きな音が出てきた時、車が突然飛び出してきた時、仕事をしていたら社長が後ろに立っていた時、駅で電車のドアが開いたら、いるはずのない友人が立っていた時、突然人が笑い始めた時など、予測がつかないことが起これば驚かされます。
  自閉傾向児の場合は人の考えを理解する力が弱いために、行動予測ができません。そのために周りで起こる出来事に驚かされることがよくあるのです。誰でも予測していないことがあれば驚くように、自閉傾向児は予測できないことが多いだけ驚かされることも多くなります。結果的に声の大きい人をきらったり、ざわざわしている部屋にいると調子が悪くなったり、特定のスーパーには行きたがらなかったりします。
  ですから周囲の人は、突然大きな音を立てたり、集中して何かをしているそばでテレビを見たりして苛立たせるようなことにならないように気をつけ、穏やかな環境にいられるよう配慮し続ける必要があります。
  カノンでも様々な工夫をしています。例えば学習室はとても静かに勉強しているので、みんながびっくりしないように、ドアが開いても音がしないようにしています。

(2)コミュニケーション力の低さによって、外界からの情報の優先順位をつける力が弱い
 人は鼓膜を揺らす音はすべて聞こえていますが、実際に意識しているのはその中のごく一部です。聞きたい音、聞くべき音を選択しているからです。勉強している時や人と話している時に、外から車が走る音が聞こえても、車が自分に関係しない時は無意識的にその音を除外します。つまり耳に届いていても意識しないのです。視覚や聴覚など五感を通して入ってくる山のようにたくさんの情報は、優先的に意識されるものとそうでないものに分けられます。人と話している時は相手の声が優先され、他の音は意識されないようになります。この能力があるからこそ、何かに集中していることができるのです。
 一方自閉傾向児は、五感を通して入ってくる情報の中から優先する情報を選別することがうまくできないために、他の人から見て優先してほしいものを優先しない傾向があります。
自閉傾向児とAさんが話をしている時にヘリコプターが飛んで来ている音がしました。その子はAさんとの話が途中であっても、窓のそばへ行きヘリコプターを探します。 Aさんとしては話を優先してほしいのですが、Aさんの声とヘリコプターの音ではヘリコプターの音の方が優先されてしましました。
  ほとんどの人は、人と話をしているとそちらに集中して、他の音が入ってきてもそれを無視するか、優先順位の低いものとして気に留めないようにします。ヘリコプターの音がしても、目の前にいる人との話の方が重要であるとか、ヘリコプターが飛んでいるけど見てもしょうがないといった判断も行われます。もちろんじっくり考えてそう判断するわけではなく、むしろ無意識的に判断しているので実感はあまりないかもしれません。しかし周りがザワザワしている喫茶店で、目の前に座っている人の話の内容だけ聞いている自分に気づいたことがある人は多いと思います。
  自閉傾向児は、目の前で話している人が、自分の話を聞いてほしいとか、そのあとで何か同意するような返事をしてほしいといった気持を持っていることを読み取る力が弱いため、目の前にいる人の声以外の音にも気をとられがちです。人が話したことに対しても「うなずく」とか「そうだね」「へえ〜っ」といった返事をするとか、にこっと笑うといった反応を示さないこともあります。

  話をしている相手が同意を求めていることを読み取ってうなずく、相手が話を聞いてほしいと思っているようなので体を相手に向ける、悩んでいるようなので慰めの言葉を言う、このような行動は相手の気持を読み取ってこそできる行動です。
  このような行動こそ自閉傾向児の苦手とするところです。そして目の前にいる人の話だけでなく、その他の音にも気をとられ、話をしている人が優先してほしい音を優先しないことがあるのです。
  話をしている人にとっては、自閉傾向児は「人の話を聞かない」「返事をしない」「人の目を見ない」といった行動に見えます。しかしこれは自閉傾向児が人を無視しているのではなく、相手の気持を読み取る力、つまりコミュニケーション力が弱いために、目の前で話している人以外の音などに気をとられてしまうことが、その理由の一つなのです。 (3)感覚刺激に過敏に反応する
  情報の優先順位は、コミュニケーション力によって判断されると言っても過言ではありません。しかし、感覚自体が過敏になっていることも、優先順位づけがうまくいかず感覚刺激にひんぱんに反応する理由として考慮していかなければなりません。
  外界からの情報に対して過敏になるのは誰しもあることです。寝る時に時計のカチカチいう音が気になる、テレビを見ているとそばで話している人の声が邪魔になる、喫茶店でテレビと有線放送が一緒についているとイライラする、人がたくさんいるデパートのざわざわした音に疲れてしまう、テレビアニメの色使いの激しさに耐えられないなど、特別な理由は思い当たらないけれど、強く刺激されてしまうことは誰でも一つはあります。他にも、肌着は綿でないと気になる、2階の足音が気になる、エアコンの音がうるさい、暗闇がこわい、雷の音に怯える、といったこともそうですし、アレルギー性鼻炎なども広い意味では入るでしょう。自閉傾向児の中には、その割合が非常に高いように見える子がいます。強く刺激を受ける理由として、コミュニケーション力が低いためなのか、過敏なのかを明確に区別するのは困難ですが、音を気にする子でもゲームをしている時は極端に高い集中力を示すこともあり、やはり多くの場合はコミュニケーション力不足によるものであって、それが起因して刺激に過敏になっていると思われます。
  健常児は外界からの刺激に気をとられても人とのコミュニケーションにできる限り力を注ごうとします。かぜをひいてぼ〜っとしている時は人への意識が低下しますが、学校を休むほどでなければ、ある程度は普通の生活が送れます。しかし自閉傾向児は、外界から強い刺激が入ると、人のことよりも刺激の方に気をとられてしまいます。
感覚自体が過敏であることが、生来のものなのか、のちの体験によってなったのかは人によって違いますが、いずれにしても何らかの配慮や対応が必要となります。
  では、その対応策を考えてみましょう。

 スーパーに買い物に行く時、スーパーのギラギラした光や色が苦手でサングラスをして行く人や、ザワザワした音がいやでヘッドホンをして音楽を聴きながら行く人もいます。高機能自閉の場合は自分で対処方法を見つけ出していくことも多いようですが、他の自閉傾向児の場合は周りの人が見つけ出してあげなければならないことの方が多いでしょう。何に対して刺激を強く受けるのかはっきりしている場合は、それを取り除けばいいのですが、実際にはそれほど簡単に原因を特定できるとは限りません。複数の原因がある場合もあれば、音全般に気をとられるような場合もあり、特定の原因を取り除くというよりも、生活全体を刺激の少ないおだやかな環境にしてあげる方がよいと思われます。
  まず初めに物を少なくすることです。物が多いとそれだけで目がチラチラしたり、いろんなものに気をとられたりして、落ち着きのなさを増長します。最低限の必要な物だけにして、あとは押入れなどの見えないところにしまいます。カノンでは必要最小限の物だけにして、生徒が集中できるようにしています。カノンを開室した当初から物が少ない方がよいことは分かっていましたが、それでも今の3倍くらいの数の物がありました。そして必要な物だけに厳選して数を減らしていけばいくほど、生徒の集中力が高まり落ち着きが出てくることを実際に体験することができました。

  具体的な例を一つ示します。

  子ども用の部屋を1つ作ることができるとします。部屋の広さは狭い方がいいでしょう。1人なら3畳から4畳半もあれば十分です。あまり広すぎると落ち着きません。大人と子どもは体の大きさが違いますから、広さに対する感覚も違います。大人が少し狭いと感じるくらいが、子どもにとっては落ち着きます。広い部屋しか空いていなければ、カーテンで仕切ってもいいかもしれません。
  物はとにかく何もないと言えるくらい少なくします。引越しするのかなと勘違いするくらいがいいと思います。カーテン、1つの机、クッションが2〜3こ、ゴミ箱が1つ、という家具に、親としてやらせたいと思う教材を5つ以下に厳選して置きます。5つの教材は1つのかごに片付けるようにします。
  テレビは置きません。テレビを見たいときはテレビの部屋に行きます。「ながら」を避けるためです。
  5つの教材を何にするかはその子によって違うでしょうし、親の教育方針によっても違うでしょう。
 できれば自然なものの方がいいと思います。幼児期であればなおさらで、プラスティックの積み木よりは木の積み木、化学繊維の布よりは綿の布です。安全性も考慮しましょう。カノンで使っている色鉛筆は口に入れても無害なものにしています。その方がもしもの時にも安心です。
  完成しているものを動かして遊ぶよりは自分で組み立てて遊ぶものの方がいいでしょう。またキャラクターものは小学校2〜3年までは極力避けたいものです。またキャラクターのついている服がかわいいから買ってあげようと思うかもしれませんが、かわいいのは子ども本人です。本人が引き立つような服や家具にしたいものです。
  勉強関係のもの(机、下じき、鉛筆など)は、高学年になってもキャラクターは避けるべきです。キャラクターに気をとられて勉強に集中できないような環境を作ってはいけません。集中できないのは本人のせいとは限らないのです。買い与える人も十分な配慮が必要です。
 そして絵を描く、折り紙をする、粘土で何かを作る、空き箱で何かを作る、ビーズで遊ぶ、など創造性を高め、心おだやかに集中できる活動をさせてあげましょう。
(4)過去に受けた感覚刺激が必要のない時にも出てくる
  自閉傾向児がぶつぶつと独り言を言っていることがよくあります。プリントをやるよりも楽しいことを考えていたい、独り言を言うことを人がどう思うか分からない、何を言っているのか分からない大人の言うことを聞いているよりも物思いにふけっていたい、おととい見た楽しいコマーシャルのことを思い出して楽しい気持ちに浸りたい、人から言われた言葉を何度か復唱して納得したいなど、これにはいろんな理由が考えられますが、本人の意識とは関係なく、頭に思い浮かんでそれを言っているような時も見受けられます。
  何かに集中している時にも、集中していることにまったく関係のないことをぶつぶつ言っている時は、自然と頭に何かが浮かんできてしまっているようです。
  はっきりとした理由は分かりませんが、過去に受けた感覚刺激の中で強いものが出てきやすいという傾向は、はっきりと見受けられます。
  たとえばコマーシャル。本人に強烈に印象づけられたコマーシャルは、時と場所を選ばずその子の頭の中に浮かんできて、独り言を言うことがあり、コマーシャルに限らず、テレビの一場面を反復する子は珍しくありません。
  さらに誰かに強く叱られた時の言葉、学校で反復練習している音読、放送大学の案内、ビデオの一場面など、必ずしも大きな音ではありませんが、強く印象づけられた音が独り言で反復されます。
  独り言の問題点の一つは、落ち着きがない時ほど独り言が多い傾向があることです。逆に言うと、独り言が多い時は、落ち着きを失いかけている時であり、様々な問題が二次的に起こりやすい状況にあるということです。
  周りのことが見えていないので、自己中心的な行動になりやすかったり、人とぶつかったりつまずいたりすることも増えます。カノンでも独り言が多い時は勉強の進み具合が遅くなります。また独り言を言うこと自体、居合わせた人に不思議に思われたり、静かにしなければならない場所で、人に迷惑をかけてしまうなどの問題があります。
  したがって、あまり強烈な感覚刺激を与えないよう注意する必要があります。
  できるだけ静かな部屋でおだやかに過ごす。テレビを見る時は小さめの音で、短い時間で。独り言で言うようになったものは次回から避ける。ながらをしない。スーパーなどのざわざわした所はできるだけ避ける。テレビがついていてしかも有線がかかっているような喫茶店には行かない。etc…..
  感覚を強烈に刺激するようなことがないように気をつけることで、落ち着きを取り戻し、独り言も少なくなってくるはずです。
  結果的に周りの環境に注意を払う力や、人の様子を見る力も向上し、コミュニケーション力が向上します。
  つまり、独り言を言っている状況は、心ここにあらずの状態であり、周りの人から見ればその場面に不適切な行動をとり、こちらからの発信にも受け答えをしない人に見える状態であるということです。
  独り言は自閉傾向児の特徴として、ある程度許容してあげることも必要ですが、自閉傾向を軽減するために強い感覚刺激をなくせるような環境を作り、その中で落ち着いて過ごせるよう配慮していくことが大切です。


■■障害とは?
障害というと身体障害、精神障害、知的障害、自閉症、学習障害、ADHD、発達障害など、さまざまな表現が使われています。一方、診断で決まる障害とは別に、だれでも一部に、極端に低い能力があるものです。そのような能力を例に、障害とは何かを踏み込んで考えてみたいと思います。

●障害は社会が作る

まず私の能力の問題点をご紹介しますので、みなさんも自分の問題点をみつけてください。
私は極度の高所恐怖症で、高校生の頃までは歩道橋を歩くときもふらふら歩き、高いビルを下から上に見上げただけで、たおれそうになっていました。ジャングルジムにも登れないほどひどい時期もありました。はじめてジェットコースターに乗ったときは地獄でした。もう二度と乗ることはありません。また飛行機に乗るのがこわかったので、サラリーマンのときは海外の支社に配属されたらどうしようとおびえていました。離陸と着陸のときは目が回りそうですし、乱気流でゆれると耐えられない状況になるからです。しかしサラリーマンは配属を簡単には断れません。

 さて、これが障害と言えるでしょうか。それは社会生活で支障があるかどうかで判断されます。ジャングルジムにのぼれなくてもこまることはありませんし、とりあえず歩道橋もわたれる。これで障害ではないということになります。
 私がパイロットになることを夢見たとしましょう。まちがいなくなれません。どれほど残念かは別として、他の道に進むことができるので社会人としては支障がないことになります。

 現在の社会では、私は障害者と言われることはありませんが、社会の状況次第で障害者となります。私が生まれた世界が、人が木の上に住む習慣をもっているとします。そのときは大変なことになります。私は家から一歩も出られず、ひきこもります。「なぜ外に出ないの。がんばって出てみようよ」とはげまされますが、苦痛の中でふるえるだけです。部屋の中では明るくみんなと同じようにできるのに、外に出られないために障害者ということになり、結局は一般的な社会生活を送ることができません。

 また、私は酒をまったく飲めません。私がサラリーマンの頃は酒の付き合いも必要だったのでがんばって飲んでいましたが、体調は悪くなるし、ただ苦痛なだけでした。酒を飲まなくてもいい仕事を選べばよいのかもしれませんが、サラリーマンはそうはいきません。与えられた仕事はかならずやらなければなりませんし、営業マンとして顧客を接待するときのように、仕事の上でも酒を飲まなければならない機会もあります。

 幸い今の私の仕事では、酒を飲まなければならないことはなく、本当に幸福に過ごしています。

 もし私の生まれた世界が、コミュニケーションをとるときは必ず酒を飲まなければならないとしたらどうなっていたでしょうか。(そんな世界はすぐに滅亡するでしょうが)その世界で私は障害者です。

 私がお話したような問題点は、誰しも一つや二つは持っているはずです。その問題点が障害となるかどうかは、社会で支障があるかどうかで決まります。健常者は問題点を持っているけれども、他の能力でカバーしたり、問題点が表面化しないような生き方をしたりすることで健常者であり続けようとします。しかし他の能力でカバーしきれないほど問題点が大きかったり、社会でさけて通れないような問題点だったりするような場合に、障害となってしまいます。 本人の努力にもかかわらず、その人が障害者と呼ばれるほど社会で問題がある場合、その人が障害者と呼ばれるかどうかは、その人を障害者と呼ばれる社会のままにしておくかどうかです。本当に高度な社会は、障害者を障害者でなくする社会体制というものを構築している社会です。障害者として特別扱いをする人が多いほど、許容力の低い社会と言えると思います。本当に高度な社会とは、すべての障害者を障害者でなくする社会体制を持つ社会です。

 カノンでは、本人の努力にもかかわらず、他の能力でカバーしきれないほど問題点が大きかったり、さけて通れないような問題点だったりする場合、すべてはカノンの問題点として改善の努力をしていきます。本人が最善をつくしているにもかかわらず、本人にさらなる努力を要求すれば、その人は障害児となってしまうからです。カノンでは本人の努力を生かせるように、一人ひとりに合った指導を行います。学校のように全員が同じ教育を受ければ、障害児は自分の努力にもかかわらず、カバーしきれないほど問題点が大きくなり、障害児と呼ばれます。特殊学級か通常学級かということではありません。障害児でなくなるほど、一人ひとりに合っていなければならないということです。

 人が木の上に住む世界に生まれた話では、私が障害者となってしまいましたが、その世界が私もふつうに生活できるように、地上にも社会を作るという力量があれば、私は健常者として生活することができます。しかし社会を変えずにいれば、障害者は障害者のままです。人が木の上に住む世界で、誰かが地上にも社会を作ろうとしたとき、その困難さに多くの人が身を引けば、障害者がその世界で暮らすことはできなくなります。そして結果的に数人の管理者と多くの障害者の集まりを作り、障害者用に準備された社会の中で暮らすことになります。この状況は障害者と呼ばれる人達の能力を示しているのではなく、その世界の力量を示しているのです。
 その世界の人達の力量が大きければ大きいほど、障害者が障害者ではなく暮らせる社会になっていきます。つまりその世界の人達の力量が大きければ大きいほど、障害者の人数が減っていくのです。

 障害者という普遍的な定義があるわけではありません。その社会によって障害者は変わります。その社会を構成する人達が、いかにして多くの人達を自立して生活できるようにしていけるかによって、障害者と呼ばれる人の人数は変わっていきます。
 メガネがないと新聞が読めない人がいます。でも障害者とは呼ばれません。メガネがあれば社会生活に支障がないからです。障害者と呼ばれる人達は、その人の生活に支障があるような社会に生まれたがゆえに障害者と呼ばれるだけで、社会が違えば障害者ではありません。

 私がまだサラリーマンだったころ、カラオケに行かなければならないことがありました。そこで取引先の営業マンが歌うと、リズムもメロディーも原型をとどめないほど狂っているのですが、その場にいる人達には大人気です。本人が歌うことが好きかどうかは知りませんが、営業マンとしては十分に役割を果たしていました。
 もしここに芸術を最優先する社会があって、そこにこの営業マンが生まれてきたらどうなっていたでしょうか。人々の楽しみは芸術であり、経済も芸術を中心に動いています。意思伝達は文字や言葉ではなく、音や色彩が使われていて、障害も読字障害、書字障害、算数障害ではなく、音感障害、色彩障害、形状認識障害です。入試は国数英ではなく、音楽、絵画、造形です。

 この営業マンは音感障害と診断されました。どんな社会生活を送るかは知るよしもありませんが、歌が下手な営業マンは、たまたまこの社会に生まれたために音感障害があると言われているのです。

 その世界その時代に生まれたことが不運かどうかではありません。ここで考えていただきたいことは、みんな障害者となるかもしれない要素をもっていて、それを決めているのはその人がいる社会なのだということです。普遍的な障害というものがあるわけでなく、その社会において生活に支障があるかどうかということです。

 石器時代に、今で言うところのADHDの青年がいたとします。現代において、彼は 10までの数なら楽に数えられますが、計算は苦手です。授業中も時々立ち歩き、宿題はまったくやらず、気に入らないことがあると人を突き飛ばしたりします。集団で行動するのを嫌がり、時々奇声を上げる一方、他人がざわざわしていると「うるさい」と言います。足が速くて運動は得意。リレーではチームをまとめて優勝に導いたりすることもあります。いい面がたくさんあるのですが、集団行動と勉強がいやで、学校では問題視されてしまいます。

 こんな青年が生まれたのが石器時代。数は獲物の数を数えるだけなので5までしかなく、頭が1、右肩が2、左肩が3、右手が4、左手が5を意味します。

 男の大切な仕事は狩りです。この青年は足が速く敏捷で、狩りではその村で1,2を争います。グループで狩りをする時はみんなに適切な指示をして信頼を集めています。ある日熊がその村を襲ってきたときも、彼はその村を守るという使命感から、勇敢に熊に立ち向かい、その村を守りました。

彼の特質はその社会においてすばらしいものであり、英雄的な存在です。
現在の社会においては、私の言っていることは理想論であって現実は違うと思われる方もいらっしゃるでしょう。確かに現在は、障害者を認定し支援を行っていくことが現実的な方法ですが、現在の社会が変わっていって、障害者と呼ばれる人の数が減っていくとしたら、すばらしいことです。そのための一つの考え方を提案しているのです。

●一人ひとりに適した指導を

 私はカノンで生徒を指導しているときに、障害を持つ生徒に対して障害児という認識がまったくなくなります。これは一人ひとりに適した指導を行うことで、生徒が自然な行動をとることができるからです。私が極端な理想論ともとられかねないことを言う理由がここにあります。

 カノンで健常児と障害児が一緒に学べるのは、障害児に対して特別に配慮しているからではありません。また、全員を通常学級に所属させたあとで、特別な教育ニーズに応じた教育援助を行うというやりかたとも違います。カノンでは特別な教育ニーズではなく、当たり前の教育ニーズとして教育しているのです。みんなと同じ学年で同じ教育を受けさせながら特別なニーズにこたえるということではないのです。

 学年は同じでもいいでしょう。小学校は 6年間で卒業すればいいと思います。しかし教育は一人ひとりの進度にあわせて教育すべきで、全員が同じ教育を受けるべきではありません。6年間で全員に同じ学習段階に到達することを要求するべきではありません。

 具体的に言えば、学年と所属クラスは年齢で分けてもいいですが、学習するときは、生徒個別の進度にあわせた授業を受けるべきです。授業を受けるときは自分の授業を受けるために別々の教室に行くということです。授業はいろんな年齢の生徒がいることになりますが、まったく問題ありません。子どもたちは同年齢の集まりで学ぶことよりも、適切な指導を求めていることが、カノンで証明されています。
 現在の学校は、学年によって学習する内容を決められています。これが統合教育やインクルージョンといった提唱があっても、なにも変わらない原因です。

●社会生活に必要な能力を

 知的障害者は、脳のどこかに機能的な問題をかかえているかもしれません。しかしメガネをかけている人も同様に機能的な問題をかかえていると言えるでしょう。しかしメガネのおかげで障害ではないのです。歌が下手な人も機能的な問題があるかもしれません。絵の下手な人も何かあるかもしれませんし、走るのが遅い人、忘れものばかりする人、よくころぶ人、逆上がりができない人、社会科だけ不得意な人、よく怒る人、泳げない人、そして高所恐怖症の私も、みんな何か問題があるかもしれません。しかし社会生活に問題がなければ障害にはなりません。泳げなければ泳がなければいいだけです。水泳の選手になろうとせず、他の道を選べばいいのです。  しかし算数が不得意な場合は、算数障害という学習障害の一種として診断されることがあります。これは学校で学ぶ上で支障があるからです。

 一方、社会生活で使う算数は一部の職種を除いて、基本的な力だけで十分です。ですから、学校の勉強や検査で問題があったとしても、教育で社会生活に問題がないようにしておけば、問題は大幅に軽減されます。その点で、学校の成績にこだわるよりも、社会生活に必要な算数にこだわって、基礎力を身につけるような教育をするべきです。現実的には、まったく授業が分からないと苦痛なので、少しでも分かるようにしてあげることも必要かもしれません。しかし自立を前提とした教育を最優先することで、社会生活を豊かに送ることができます。

●障害を補う能力

 私は今見たことをすぐに忘れるという記憶の問題があって、学校の勉強では苦労しました。学校の勉強はおぼえることが多く、テストの前におぼえようとしましたが、おぼえてもすぐ忘れ、何度も反復して勉強していました。
 それがはっきり現れるのがトランプの神経衰弱です。生徒たちと神経衰弱をすることがありますが、ほとんど負けます。というのは、2枚のカードを表にして数字を見ますが、それを裏返した瞬間、そのカードが何だったかすぐに忘れてしまうからです。そして順番にカードをめくって自分の番が来たときに、どこにどんなカードがあるか一つもおぼえていません。

 短期記憶だけ見れば軽度の障害者と言ってもよいほどなのに、社会生活においては何ら問題がないので、私は障害者と呼ばれずにいます。私の場合は学校の勉強や何の手がかりもないことを覚えるのは苦労しますが、一度おぼえたことに関連する記憶は良く、すぐ覚えられます。特に音楽であれば一度聞いただけでかなり覚えられます。この関連させておぼえる能力が、はじめてのことをおぼえる能力の低さをおぎなって、平均的な記憶力となっているようです。

 私が教えた生徒の中にすごい記憶力の生徒がいました。ある日ホワイトボード一杯に長い文章を書き始めました。一度読んだだけで覚えたようです。学校の成績はいつもトップクラス。記憶力がいいので社会科はほとんど100点です。この生徒が英語の単語では覚えられずに大変苦労しました。社会科の記憶力は私の数十倍はありそうなのに、英語の単語の記憶力はなぜか私の方が上でした。このように、記憶力といってもことがらによって随分と違い、いい記憶が悪い記憶を補って、全体の記憶力を形成しているのでしょう。

 さて、皆様も思い当たるところがあるでしょう。何か極端に低い能力とそれを補う別の能力。それは誰しも持っている能力です。
 この補う能力というのは人によってまったく違います。また何が補う能力なのかも分からないでしょう。むしろさまざまな能力を複合的に使って補っているといった方がいいかもしれません。ですからある能力に特化して指導するのではなく、その子の理解に最適な指導を行うことが重要です。つまりその子が理解できるように、最適なステップからはじめ、適した言葉や態度で接し、よい環境に置くということです。そうすることで障害を少しでも軽減することができるのです。

●人間らしい行動とは

人間の社会を、弱肉強食の動物の社会になぞらえて、その厳しさを言う人がいますが、人間の社会を動物の社会で表現することができるでしょうか。
 人間と動物はまったく違います。強いものだけが生き残って、その動物の競争力を向上させるという物質的、肉体的な強さだけの競争力は、人間以外の動物のことであり、人間の本当の強さは別のところにあります。

 人間は、他の動物と比べて肉体的に強いほうではないでしょう。人間は、その弱さを知恵で補ってきました。つまり人間の強さの一つに、弱さをカバーする知恵があります。これが特に優れているのが人間であり、他の動物と一線を画しています。障害を持つ人といかに共存できるようにしていくかは、その時の人間の力の高さを表しており、より人間らしいかどうかということでもあります。障害者との共存といっても、福祉費用を多くとるとか遊んであげるといったことを指しているのではありません。障害者が健常者と同じように社会で自立できるという意味です。

 特別な対応をするということでもありません。あたりまえのこととして行われていなければなりません。特別な対応をしている間は障害者として扱っているからです。
 
 社会が少しでも多くの人と共存できるようなものになれば、それだけ障害者も減っていきます。いろんな障害がありますから、とても難しい課題です。しかしその課題を解決していくことこそ、人間だけにしかできない人間らしい行動なのです。



数に関する資料

■ CONTENTS ■

▼数はコミュニケーションによって1
▼数はコミュニケーションによって2
▼理解は同意によって生まれる
▼数の誤解もコミュニケーションによって
▼数ってなんだろう
▼家庭で数を教えるには
▼数の大きさによって1
▼数の大きさによって2

数はコミュニケーションによって1
私たちは数を普段の生活の中で何気なく使っていますが、数とは何かと聞かれると少し考えてしまいます。りんごが三つある、テストで10番だった、服が2万円だった、前から3つ目のケーキなど、ごく自然に数量や順序を表す時に使っています。

では子ども達はどのように数を理解しているのでしょうか。私たちは幼児期を経験しましたが、なるほどこれが数かなどと思ったことのある人は少ないでしょう。いつのまにか分かっていたという人がほとんどで、どのようにして理解していったかと聞かれてもよく分からないのが普通です。

しかし同時に難しい方程式にこの世の物ではないような不思議さを感じたこともあるのではないでしょうか。アインシュタインの相対性理論を私たちのほとんどがまったく分からないように、私たちが分かる簡単な数が分からない子ども達がいます。分からない子ども達に分かってもらうためには、まず始めに、私たちが彼らの理解の仕方を理解する必要があります。

●数はコミュニケーションのために

数は記号です。これは言葉と同じように、人間が自分以外の人間に何かを伝えるための手段として考え出したものです。つまりコミュニケーションをとる一つの手段ということです。

人が生活するところには、たくさんの物があります。一つではありません。そしてその物を使う時にその量を人に伝える必要がでてきました。自分が飼っている羊が盗まれたら分かるように数えておくとか、物々交換の時に芋の数を数えるとか、いろいろあったでしょう。はじめは1,2くらいの数でしたが、だんだん多くなり、数を数えるための記号(数詞)が発達していきました。私たちが主に使っているのは十進法ですが、歴史的に見るとたくさんの数え方があるようです。時計がそうですし、英語やフランス語の数え方にも見受けられます。その話は別の機会にするとして、とにかく数は人に量や順序を伝えるために生まれてきたものなのです。

●数は高度に抽象化された記号

3はなに?と考えてみると、随分とたくさんの3があることに気がつきます。りんごが三つあると3、三人いれば3、ボールが三つあっても3、指を三本だしても3です。とにかく何か固体のようになっていて数えられれば数として認識することができます。

それでは幼児はこれをどのようにして理解するのでしょうか。りんごを指差してりんごということもあれば、それぞれを指して、「いち、に、さん」ということもあるのです。幼児は「これはりんごで、いちじゃない」と思っているかもしれません。しかし同じような経験を積んでいくうちに、いくつかあると「いち、に、さん」と言うことができるのだということに気づきます。そしてそれが同じ量のときには人が同じように数えているところを見て、量的な概念をおぼろげながら理解していくのです。

ところがある日、お母さんが色違いのボールを「いち、に、さん」と数えます。「これは違うものなのになぜ数えるの」と幼児は思うでしょう。幼児にとって色が違うということは同じ物ではないのです。また別の日に、お母さんが袋の中に入っているいろいろなおもちゃを「いち、に、さん」と数えています。「なんで違うものが数えられるんだー」と幼児は思います。このようなことをたくさん経験するうちに、大きさや色が違っても、物自体が違っても、数え方には影響がないということに気づきます。これが分かるとかなり数については分かってきたことになります。

ところがある日、お母さんがお皿を指差して「三枚あるわ」といいます。「え?これは、いち、に、さんよ」と幼児は思います。なぜ最後の数だけを言うのでしょう。幼児は混乱してしまいました。でも別の日に、「えーっと、お皿が、いち、に、さん、全部で三枚だわ」という言葉を聞いて、全体の量を表すには最後の数を言えばいいのだなということに幼児は気づきます。

幼児は、概念は分かってきましたが、大人の言葉の分かり難さに気分を害します。なぜお菓子を「さん」といわずに「みっつ」と言うの?なぜさっき「みっつ」と言ったのに、今度は「さんこ」と言うの?なぜ犬を「さんびき」と言うの?なぜ折り紙を「さんまい」と言うの?なぜ物によって数え方が違うの?お菓子を指差しただけで「おかし」「さん」「みっつ」「さんこ」と言うなんて、大人はずいぶんと複雑なことが好きなんだなあと幼児はあきれ返ります。でもまあいいや、と気楽に考えてくれます。このあたりで幼児は助数詞というものがあることに気づき始めます。

おおらかな気持ちになった幼児に気持ちを逆なでするように、今度はお母さんが「あなたはさんばんめよ」と言います。「え?私の名前はゆきよ。さんばんめじゃないわ」と幼児は思いました。でも少ししてそれが順番を表していたのだということが分かりました。

さて、私たちは花を見て「チューリップ」という名前で呼ぶのと同程度に、「3」という数を簡単なものとしてとらえることができます。しかしここまで数の話をしてくれば、数が如何に高度に抽象化された記号であるかを理解していただけることと思います。幼児の認知、理解の手順が上記のようになるとばかりはいえませんが、数の理解が多くのコミュニケーションを通して得られるのだということはご理解いただけたのではないでしょうか。また同時に数の理解は同じようなプリントを繰り返していたのでは、大した効果は期待できないということも分かっていただけたはずです。

●家庭での指導の仕方

数に困難を感じる子供の認知、理解の仕方は特長があるものの、理解するまでの基本的な流れはほとんどの子供に共通です。しかし何もしなくても理解する子どもとは違い、理解するまでに細かいステップを踏むことや意図的に頻度を増やしてあげることが必要です。数に困難を感じる子どもの多くは数の概念が確立する前に、加減乗除に入ってしまい、そのまま足し算のできない大人になってしまうのです。ですから一桁の足し算ができない子は数の概念がまだ十分に確立していないと思って間違いありません。
指導上で最も大切なことは、コミュニケーションの中で伝えることです。

「○○ちゃん、お菓子よ。はい三つ。」
「コップを3つだして。」
「3頭目の馬は白いね。」
「さあ、3人で出かけましょう。」
「このお皿のエビは、ひとり2つずつ食べてね。」
「猫が5匹もいるね。」
「6つあるから、二人に3つづつあげる。」

このような声掛けをたくさんしてあげましょう。始めに「これはいくつあるの」というような質問をすると、試されているような気がして答えたがらなかったり、答えたけれども間違えていやな思いをすることもありますから、できるだけ普通の会話の中に多くの数字を入れるところから始めてください。

数はコミュニケーションをとるために生まれてきた記号です。数を教える時はコミュニケーションの中で教えましょう。しかも頻度が高くなくてはなりません。ご家庭では幼児期に十分な指導をしてこられたと思います。しかし数に困難を感じる子どもは、困難を感じない子どもの何倍もの頻度が必要であり、まだ十分ではないのです。

学校の進度を最優先してはいけません。段階を飛び越すと、後ですべてをやり直すというたいへんな作業が必要になります。しかも子どもの理解や精神状態に悪影響をおよぼします。

「数の理解はコミュニケーションを通して」ということが、今の教育で忘れられている最も重要なことなのです。


数はコミュニケーションによって2
「数」というと学校で習うことのように思えますが、実際には就学前に身近な人とのコミュニケーションによってほとんど理解しています。数は絶対的で人の意図とは関係ないように思えますが、数こそ意図を伝えるコミュニケーションによって学ぶことができるものであり、コミュニケーションがなければ理解できないものなのです。

本当にあった話かどうかはわかりませんが、一つの数にまつわるお話をしましょう。

むかしむかし、ドイツに探検家のカノンという人がいました。カノンはアフリカの奥地でサンスー族に出合いました。カノンはサンスー族と言葉は通じないし生活習慣も違っていて何を考えているのか分からないので、不安でなりません。サンスー族が歓迎の準備で火を燃やし、料理の準備を始めた時も、カノンは自分がいけにえにされるのではないかと不安でパニックになりそうになりました。

翌日サンスー族はカノンの前にくだものを3つ置き、「あー、いー、うー」と言いました。
カノンは「3つともりんごに似ているのでそれぞれの名前ではなさそうだが、何を意味しているのか分からない」と思い、黙っていました。するとサンスー族はもう一度「あー、いー、うー」と言いました。カノンは自分にも言えと言っているのではないかと思い、とりあえずオウム返しに「あー、いー、うー」と言いました。すると、サンスー族は安心したような表情になりました。

カノンは「あー、いー、うー」の意味が知りたくなり「あーは1、いーは2、うーは3かもしれないと思い、2つとって「いー」と言ってみると、サンスー族はさっきと同じように3つを置いて「あー、いー、うー」と繰り返しました。

それから数日後、人がたくさん集まってきて、カノンの前にたくさんのりんごのようなくだものが置かれました。まさかくだものの数だけ何度も「あー、いー、うー」と言わされるんじゃないだろうなとパニックになりそうになりましたが、どうしようもなくそこに座っていると、ひとりの人が来てくだものを3つ手にとって何か分からない言葉でカノンに話しかけました。カノンはさっぱり分からないので、とりあえず「あー、いー、うー」と言ってみると、その人はサンスー族が使っているお金を置いてくだものを持って行ってしまいました。

その時初めてカノンは自分が果物屋の店番をやらされていて「あー、いー、うー」がくだもの3つの金額を意味しているのだということに気づきました。

一般的に数を子ども達に教える時はどうやって教えているでしょうか。物をいくつか置いて数字を言うかプリントにいくつかの物がかいてあるのを数えて数字に置き換えるというようなことをします。実を言うとこれはすでにコミュニケーションを通して数の意味を理解している子どもに対する教育方法なのです。

カノンさんが体験したことを思い出してください。目の前にくだものを置かれて「あー、いー、うー」と言われても何のことか分かりませんでしたね。幼児の目の前にりんごを3つ置いて「さん」と言うとひょっとして「さん」という名前のくだものかと思うかもしれません。または単に「さん」と言えといっていると思うかもしれません。数字のカードで理解する子供もいると反論する人がいるかもしれませんが、カードだけで理解しているのではなく、普段のコミュニケーションと複合して理解しているのです。

カノンさんにしても自分なりに理解しようとして返事をしてみても、意味が理解できるコミュニケーションなしでは分かりません。何度教えられてもオウム返しが精一杯でした。そして「あー、いー、うー」という言葉にお金が出されて初めて金額であることに気づきました。

3という数を教える時は、今使おうとしている3がどのような意味を持っているのかを理解できるようなコミュニケーションを通して教えなければなりません。物を指して3と言っているだけでは何も伝わりません。「何個ほしい?」と聞いて答えが返ってこなくても「それではいっこね」といって1こ渡し、もっとほしそうであれば「それではさんこね」といって3こ渡すというコミュニケーションをとってみます。これだけで数が分かる子はいませんが、このようなコミュニケーションを繰り返すことで、量的に欲求不満が強い時に聞く数と満足する時に聞く数の比較で数に対する多い少ないの感覚が習得されたり、視覚的な量と数字が結びついたりして数の概念が形成されていきます。数回で形成されるのではなく、何百回、何千回という体験によって形成されていくのです。

数字は絶対的なものではなく、意図を伝達するために作られた記号の一種です。物が3つあると3ということが絶対的なことのように思えますが、実際は3つあるものを交換するとか、自分の物が3つであるとか、3つ目の柱の所までが自分の家だというようなことを伝えるための道具として使われ始めたのです。

このような視点からするとプリントは子どもにとってとても分かり難いものです。幼児用に作られた教材を見てください。いくつありますかという質問のページを見ると、りんごの木の枝にりんごが2つなっている絵が描かれています。しかしよく見ると木には葉っぱが5枚あるし、木の下には石ころが4つ描いてあります。大人が見れば誰が見てもりんごの数を聞いていると思うでしょうが、ここには出題者の意図を理解するというコミュニケーションが存在し、こういう場合はりんごの数を聞いているんだなと思える他者の視点からの推測が必要となります。プリントを解く技術であって慣れればできるとも言えますが、普段のコミュニケーションの力が基礎となることは間違いありません。幼児用教材は保護者がついて指導することが前提となっていますので指示してあげればいいのですが、遅れたまま小学校に上がる障害児の場合は苦しい立場に置かれます。

数を教える時の環境で最も大切なことは、プリントを揃えることではなく、数が理解できるコミュニケーションを使って教えることです。あめをあげる時に「はい、2つね」と言ったり、階段を数えながらのぼったり、ラーメンを作って「3分待ってね」といって待たせたり、「お皿を2枚とって」と頼んだり、とにかく数を感じることができるコミュニケーションの中で数字を使って話してください。

勉強は、そのようにして習得された数の概念や感覚を系統立てて理解し応用して使えるようにしていくものとして位置づけられます。カノンでの勉強は数の概念や感覚の形成まで視野に入れて考えてありますが、しかし基本はコミュニケーションを通してということなのです。

コラールコースがコミュニケーションを重視する理由もここにあります。コミュニケーション力が高くなればそれだけ数の理解力も高くなります。なぜなら数はコミュニケーションを通して理解しているのですから。

障害児の場合は幼児期に十分にコミュニケーションが取れなかった可能性が高いのです。それは自閉症という人とのコミュニケーションに障害があったのかもしれませんし、病気によって意識がはっきりしていなかったのかもしれません。いずれにしても親からのコミュニケーションに問題がなかったとしても子ども側の受取る力が欠けていたことは事実でしょう。そのことは就学後に顕在化しますが、学校では数を理解するコミュニケーションなしで問題として取り組みますから、障害児はいつなってもできるようになりません。幼児期にとどまったままになっているのです。

私たちは、幼児期に必要としていた学習ステップを今から補充する役割を担わなければなりません。幼児期よりももう少し効率的にできるはずです。

家でもコミュニケーションの中に数字を盛り込んでください。1ヶ月くらいで「なかなか進歩しない」なんて思わないでください。幼児が3年で習得したものを1年かけてやるんだと思ってください。
数の概念や感覚を指導するステップがコラールコースのすべての生徒に共通したステップではありませんが、数はコミュニケーションを通して理解されるということは全員に共通しています。

理解は同意によって生まれる
人は椅子を見るとそれを椅子として認識し、車を見るとそれを車として認識します。人はどうやって物質を固有のものとして認識しているのでしょうか。名称を聞くとどうしてそれが頭に浮かぶのでしょうか。なぜ椅子と座っている人は別のものに見えるのでしょうか。

我々は普段、椅子は誰が見ても椅子に見えると思っています。しかし実際には椅子という絶対的なものがあるわけではなく、人は人とのコミュニケーションを通して、ある形状を持っているものを椅子と呼ぶということを学び、椅子という言葉を聞くとある形状を持っているものが頭に浮かんできます。時には意見が一致せず同じ名称がつかなかったり、コミュニケーションが成立しないようなこともありますが、多くの場合はある名称を聞くとみんな同じ物を連想します。

ではここで、宇宙人が地球人の使う椅子を見つけてそれが何かを分析したらどんな答えが出るかを想像してみましょう。宇宙人は地球人とまったくコミュニケーションをしたことがなく、地球人という存在があることは知っていますが、どんな人かは知りません。宇宙人はまずその成分を分析して一覧表にしますが、椅子が何であるかはまったく分かりません。つぎに形状から分析してみますが、椅子に座ったことがない宇宙人には座るという概念すらなく、自分たちの行動パターンに合わせた的外れの予想をします。この他にもたくさんの研究をしますが、結局地球人に会ってみなければ分からないという結論に達します。

コミュニケーションは人と人が理解しあうための絶対条件であり、それが理解のスタートとなるものです。宇宙人が地球人とのコミュニケーションなしには椅子を理解できなかったように、地球人同志でも椅子を理解するには人と人とのコミュニケーションが必要であり、コミュニケーションを通してその形状や名称を認識するのです。

さてコミュニケーションを通して椅子を椅子として認識するには、人と人との間に共通する感覚が必要となります。つまり椅子と聞いた時に椅子という実感を伴ったものが頭の中に浮かんでくる必要があります。そしてそのとき初めて、椅子といわれたものは椅子として存在するようになります。つまりAさんが椅子だと思い、Bさんが椅子だと思えば、二人の間では椅子だということです。このことは別の見方をすると、「固有のものを認識するには、人と人が同意しなければならない」ということになります。絶対的で正しいことなどありません。色にしても、ある人は赤と言い、もう一人は朱色だと言えば、どちらが正しいかは決められません。色を波長の長さで決めたとしても国によって名称が違います。信号を大人は「青」と言いますが、子供は「緑だよ」ということがあります。どう見ても緑に見える信号を「青は進め」と教えられるので「青」というのでしょうが、「信号は青」という同意を得て共通認識を作っています。音が高い低いというのも同じことで、みんなが同意しているかどうかということです。良い悪いの判断も、国や民族や宗教によって違いその中で同意を得て決められています。この同意を作る大きな役割を担っているのが教育です。教育は平和な同意を作ることもできれば、破壊的な同意を作ることもできるので、私たちが最も重視していかなければならないことです。

さて、なんでこんなややこしい話をするんだ、と思われる方も多いでしょうが、数の指導をする時に大切な視点なのです。たとえばお子さんを教えていて、なぜたし算が分からないのだろうと思われた方も多いでしょう。子どもに同意できないという状況がそこにあります。逆に言うと子どもが教える人に同意できないということでもあります。この状況は子どもと教える人との間に同意できないものがあるのであって、平等な立場で考えると教える人が子どもを一方的に責めてはいけないわけです。同意できないとストレスを感じ、それがイライラにつながって最後には怒ってしまうことがありますが、同意できないストレスを解決する楽しみ(向上心)に持っていくことで、行動を「逃避」(=一方的に怒るかやめる)から「前向き」(=同意できない問題を解決する)に替えていくことができます。

ケーキを食べて「おいしい」と言う人もいれば、「そうかなあ」と言う人もいます。同意していません。「空が青いわね」と言うと「ほんとだ!」と言う人もいます。同意しています。ケーキに絶対的なおいしいという感覚があるわけではなく、空に絶対的な青があるわけでもなく、ただ同意しているかしていないかだけです。「青」という漢字を「あお」と思うかどうかも「3」という数字を「さん」と思うかどうかも、誰かが決めたことに同意するかどうかということであって、正しいかどうかということではありません。

このことは指導する立場に立った時に大切なことです。分からないことが悪いことのように思うのは間違いで、分からないということは同意していないということなのです。私たちも人から何かを言われて同意できないと「どうしてですか」と質問します。そして分かったら「そうですね」と言って同意します。3つのものを並べて、「さん」と伝えて、子どもが首をかしげたら同意していないということです。3つのものに対して「さん」という同意できる感覚を持っていないのです。

そこで教育が必要となります。なぜなら我々の使っている記号や言葉は、同意した上に成り立っているのであり、人によって意味が違ってはコミュニケーションが取れないからです。逆に言うと記号や言葉はコミュニケーションを通して学ばれ、そのための教育が必要ということでもあります。

同意したかどうかは「なるほど」「そうだね」「なんだ、そうだったのか」といった言葉や満足した明るい表情で表されます。とてもすっきりした感覚が得られたら同意が成立したと考えられます。

同意できる感覚というのはすぐに身につくものもあれば、長い時間を要するものもあって、数は最も長い時間を必要とするもののひとつです。したがって数において同意するためのコミュニケーションに長い時間が取れていない場合はいつまでたっても分からないという状況が起こります。

コミュニケーション力を向上させることは数の理解に必須です。そしてコミュニケーションを通して数の感覚を習得した時に始めて数に同意することができるようになるわけです。

数の誤解もコミュニケーションによって
数はコミュニケーションを通して理解されます。それと同時に、誤解されるのもコミュニケーションを通して行われます。

例をお話ししましょう。左手におはじきを3つ、右手に2つ持ち、生徒の前に座ります。左手を出して「いくつありますか」と聞くと、「3」という答えが返ってきます。次に右手を出して「いくつありますか」と聞きます。さて皆さんはいくつと答えますか。生徒の答えは半々で、一つの答えは「2」もう一つは「5」です。左手を出したままですと見える数が右手の2と左手の3ですから合わせて「5」と判断することができますし、右手が差し出されたのでそれが質問だと判断して「2」と答えることもできるからです。

どちらが正解かといえば、それは質問した人がどちらを聞いているかということになります。教科書や問題集などで同類の問題があれば通常「2」が正解ですが、それは編集者がそのような思考回路をしているからです。

私たちが気をつけなければならないのは、誤解のないようなコミュニケーションを取らなければならないということです。答えを「2」とするなら、左手を出して、「いくつありますか」と聞き、左手を閉じて生徒に見えないようにして手前に引きます。その後で右手を出して「いくつありますか」と聞けば、ほぼ間違いなく「2」という答えは返ってきます。

このことに気づかないと、生徒はたいへんな思いをさせられることになります。左手におはじきを3つ、右手に2つ持ち、生徒の前に座ります。左手を出して「いくつありますか」と聞き、「3」と答えさせ、左手を出したまま右手を出して「いくつありますか」と聞きます。生徒が「5」と答えた場合、質問の仕方に疑問をいだかない質問者は「どうして5なの?2でしょ。よく見て!」と言い、次の問題に行ってしまいます。生徒は苦痛にゆがんだ顔をして途方に暮れます。そして今度は左手におはじきを5つ持ち、左手を生徒の前に出して「いくつありますか」と聞きます。生徒はさっき5つあるのを2と言われたので「2」と答えます。質問者は「何を言ってるの。いくつあるの、数えてごらん。1,2,3,4,5、ほら5でしょ、よく見て」と言います。生徒は大混乱し、数字を嫌いになります。

難しいなと思われた方もいらっしゃるでしょうが、私は数の指導に専門技術が必要だと言うつもりはありません。前回「同意」についてお話しましたが、生徒が間違えた場合や顔が苦痛にゆがんだ場合、または行動が逃避している場合は、同意していないということであり、正しく伝わっていないということに気づかないといけないということです。「この子は根気がない」とか「やる気がない」とか「何度教えても分からない」という判断は間違いです。同意できていないと判断し、同意できる指示を模索するのが正しい行動です。

カノンが他の教室と一線を画しているのがこの視点です。みなさんもぜひこの視点を持って子どもを見て下さい。子ども達は「なるほど」とうならせてくれるような楽しい答えをしてくれていることに気づき、教えることが楽しくなってきます。

子どもにばかり合わせていたらプリントで答えられないのではないかと考える方もいらっしゃるでしょう。プリントには、このような質問がでた時はこう答えるという答え方があって、それができるようになるのはパターンを認識することですから、正しく理解した後にプリントを何枚もやればできるようになります。

今までの話をより理解していただくために、不十分なコミュニケーションによる間違いの例をいくつかお話ししておきます。

ある生徒に数の指導をしている時のことです。私は右手の指を2本たてて「指は何本ですか」と聞きました。するとその生徒は「5本」と答えました。私は「そうですね」と言って正解としました。これを読んでいる皆さんは2本と答えるでしょうが、右手を出して指は何本と聞かれれば、どのような形になっていようと5本が正解とも言えるからです。これは数の理解が問題ではなく、聞き手の意図を理解するというコミュニケーションの問題です。また別の見方をすると、「指は何本ですか」と聞くのではなく、「立てている指は何本ですか」と聞くなど、正しく質問するべきであるとも言えるでしょう。この時私はやり方を変更し、右手の指を2本立てて、左手で2本の指をさして、「この指は何本ですか」と聞くと、「2本」と答えてくれました。

先日はこんなことがありました。質問をして答えてもらうというコミュニケーションの練習で、私は自分の鼻を指差して、「これはなんですか」と聞くと、生徒は「高原先生」と答えました。確かに自分を指す時は鼻のあたりを指します。ですからよく見ているなと感心しました。でも「だれですか」ではなく「なんですか」と聞いたのですから「鼻」と答える方がより適切であるとも言えます。指で鼻をつまむような指示をすれば間違えなかったでしょう。言葉のコミュニケーションの誤解によって、鼻という形を見るべきところを人全体の形を見るという違いが生じた例です。

数ってなんだろう
数はコミュニケーションを通して理解されることをお伝えしてきました。このことはいくら書いても書ききれないほど内容が豊富で重要なことですが、このあたりでコミュニケーションを通して伝えようとしている数自体がどのようなものなのかを考えてみましょう。

数というと、いくつあるかとか、たし算ひき算とか、時計、お金などが頭に思い浮かびます。しかしまわりを見渡しながらもっと考えてみると、とにかく至る所にいろんな意味を持った数が散らばっています。そしてその数をみるごとに、何を意味しているのかを即座に感じ取って意味を理解します。商品に書いてある番号、ダンボールにある住所、携帯電話の日付や時間、パソコンの行数や桁数、カレンダー、袋に意味不明に散らばっている数字、バーコード、温度計、見るものすべてといっていいくらいに数が関係しています。

また数字が書いてなくても何らかの数が思い浮かぶものもあります。楽器を見ると音の周波数、コンセントを見ると電圧、光を見て紫外線や赤外線、洗濯物を見て洗濯機のセット時間、本棚を見て設計図の寸法、考えればいくらでも出てきます。

数を考えた時に概念的にでてくる言葉をあげてみましょう。個数、重さ、広さ、大きさ、長さ、位置、時間、場所、名称、ナンバー、割合、順位、強さ、拍子、速さ、幅、音程、金額、などなど。これらは分類の仕方によっては同じ概念に属するものもあるでしょうが、それぞれが関連しあいながら独自の世界を形成しています。

それにしてもこれだけ複雑で多様な数に関することを、人はどうやって理解してきたのでしょうか。概念を形成するには類似した内容の経験とそれを他と区別する内容の経験が必要です。たとえば犬を理解するには犬と呼ばれる動物をなんびきも見て類似点を見つけることと、猫や牛や熊のように犬ではない動物を見て相違点を見つけることが必要ですが、数においても同様です。何千何万回という経験を通して概念として形成されていきます。

学校の算数の場合は、数が数えられるようになったら、集合数と順序数を教え、すぐにたし算ひき算です。指導要領は体系的に考えられているので必要なことはそれなりに盛り込まれているのですが、この段階で障害児は急につまずきはじめます。たし算を指を使わなければできない、繰り上がりができない、かけ算はできるがわり算はできないといったことが起こります。なぜなら様々な数の概念の指導に十分な時間を割り当てることができず、筆算のような計算技術に多くの時間を費やしているからです。筆算が必要ないということではありません。学習段階を間違えているということです。

上記のような数の概念は学校で習うよりも早く家庭生活で習得しますが、発達が遅れている子は十分習得する前に計算技術に入ってしまうためにつまずくのです。また理解のアンバランスもつまずきの原因となります。たとえばあめを4こ持っていて1こあげたら3こになることは分かっても4−1はできないとか、テレビの始まる時間は分かっても時計は読めないとか、電車の3番線は分かっても右から3番目は分からないといったことです。このくらいのことは健常児でもよくあることですが、障害児の場合は理解にたいへん時間がかかります。数を理解する時はいくつかの概念を関連させて理解するにもかかわらず、欠落している概念があるためにうまく理解しきれないのです。

このような穴をうめるには、いつも言っている通りコミュニケーションを通した数の理解をしていかなければなりません。普段の生活の中で具体的な数の体験をたくさん積んでいくことで欠落した部分をうめていくことができます。カノンではグループ学習における数の体験と学習室でのトレーニングがありますが、トレーニングした内容が普段の生活で認識されてこそ理解にまで結びつきます。実際にそのようにして理解している生徒が何人もいるのです。

家庭で数を教えるには
数は何千、何万回という経験を通して概念となることを「数ってなんだろう」でお伝えしました。今回はご家庭でどのようなことができるのか考えてみましょう。

生徒によって必要なことはそれぞれ違いますが、ある程度共通していることは、数を数字だけで教えるのではなく具体物を使って教えることです。思い起こしてみてください。1年生の時にプリントでたし算を暗算でできなかった生徒の大半は何年生になってもプリントではたし算を暗算でできるようになっていないはずです。ごく希にできるようになる生徒がいますが、本当にごく希です。指を使っているのも暗算とはいえません。

なぜこうなるのかというと、数字と量の感覚が一致していないからです。暗算でできる人は、数字を聞くとその数字に量的な感覚が伴います。4+1というと4くらいの量に1くらいの量が加えられる感覚があるはずです。それは4つの黒い丸かもしれませんし、漠然とした影かもしれません。質感というものがあるはずです。この質感を持たない限り数字によるたし算が暗算になることはめったにありません。この質感は具体物によって習得されるものです。

たとえばおてだまを数えながら渡してもいいでしょう。数字が大きくなるほど手の中に入りきらないほどになっていきます。階段を数えながら上がってはどうでしょうか。数字が大きくなるほど疲労感は増していきます。飴を5こ机の上に出し、取ったり戻したりしながらいくつあるかいいましょう。量が増えたり減ったりするごとに数字が大きくなったり小さくなったりすることを経験できます。積み木を縦一列に積み重ねていくつ積んだか言ってみましょう。下から数えて一番上の積み木の数字がいくつ積んだかの数字になっていることに気づきます。数えた最大の数字がそのまとまりの数となることや数字が大きいほど高くなることが分かります。

まとまりの数を教える時は「1,2,3」と数えずに、ぱっと見て数を判断し最大の数「3」のみを言うようにします。5こくらいまでは一目で判断できます。1,2,3と数えなくても分かります。1,2,3と数えるのは、そのように教えられたからです。数をまとまりとして見る時は、ほとんどの子どもは学校で教えられるまでもなく4,5才で最大の数を言えばいいことに気づき、だんだん数えなくなります。しかしその時期を段階として迎える前に算数として教えられた障害児は学ぶべき段階を飛び越してしまうことによって、前段階の数える段階にとどまることになります。この段階を通りぬけるためにも、一目で判断できる5までの数で最大の数を言う練習をしなければなりません。

この練習をしておけば、コラールコースでは繰り上がりでさえ具体物を使ってできるようになり、当然プリントでもできるようになります。このようなノウハウをカノンは皆様にも公表します。ですから大切なこととして家でも少しずつやってみてください。何千回という経験が必要なことでもコースと家庭が連動すればもっと早く習得できるでしょう。1,2ヶ月で効果がないと思ってはいけません。怒ってはいけません。楽しくないと感覚は閉ざされてしまいます。

2年前に2+1が暗算でできなかった生徒が今年繰り上がりの勉強を始めました。今年中にある程度暗算でできるようになるでしょう。夢のような話ですが現実に起こっていることです。

数の大きさについて1
数には大きさという概念があります。「3より5の方が大きい」といった言い方で表します。大きいということは何かと比較して数量や程度が上回っているということです。「3より5の方が大きい」という場合は、3と5を比較し、5の方が数量が大きいということです。

話は普通ここで終わるのですが、もう一度3と5を比較して本当に5の方が大きいのか考えてみましょう。3と5を文字の大きさとしてとらえてみてください。文字としてはほとんど同じ大きさであることに気づきます。つまり「3より5の方が大きい」というのは間違いとなります。そういうのを屁理屈というんだといわれそうですが、子どもの理解の段階でそのようなとらえ方をする時期があるのだということを我々は知っておかなければなりません。そして「3と5はどちらが大きい?」と聞く時は、数字で聞くのではなく、数量が分かるようにして聞かなければならないのです。

さて、小さい数の比較は物を見せれば分かりますが、大きい数の比較はどうしたらいいでしょうか。憶になるとどう説明しようかと思いますし、京、恒河沙、不可思議、無量大数となると説明以前の問題になってしまいます。いずれにしても理解できるような手がかりが必要であることは間違いありません。

5才の娘と宇宙の話をしていた時に、世界より宇宙の方が大きいと認識していました。(世界を精神世界とすれば宇宙よりも世界の方が大きいでしょう。)娘の場合の世界は地球上にある国のことであり、宇宙は広大な星空のことです。宇宙の星と星の間を行き交う物語を私が聞かせているので、星のひとつである地球より宇宙の方が大きいという認識を作ったのではないかと考えています。これで大きさの手がかりは持てましたが、さらに数の手がかりが持てると数の比較もできるようになります。

宇宙の大きさを数値で説明するのは難しいことですが、とりあえず地球から宇宙の果てまでは150憶光年といってしまえば、ひとつの尺度ができあがります。そうすると140億光年の銀河は随分と遠いということが比較で分かります。

地球儀を見て、日本を見て、埼玉県を見て、大宮市を見て、それぞれの大きさを視覚的に認識し、電車や車で移動するたびに時間的、距離的に体感し、面積や距離などの数値がでてくるたびにそれらを相互に比較して数の大きさとして認識していくのです。


数の大きさについて2
大きさは数量、体積、面積、程度、規模、範囲、重要度、年齢、態度、背など、いろんな大きさを表します。しかしこの中で、面積は大きさというより広さという感じがしますし、背も大きいというより高いという方が多いように思えます。

地球の大きさといったときに、半径6.400km、円周40.000kmということがありますが、これは見方によっては大きさというよりも距離のように思えます。別の言葉で言うと長さともいえます。一方東京から大宮まで○○kmというと大きさとはいえません。距離です。にもかかわらず地球の大きさというとkmで表しても違和感がありません。たぶん半径という言葉から円周を連想しさらに球を思い浮かべることで大きさに結びついているのでしょう。
それならば重さや体積で表せばどうでしょうか。重さは惑星によって比重が違うので比較にならないのではないでしょうか。体積なら比較できるかもしれません。天文学は専門ではないのでよく分かりませんが、それでも今までの経験からいろいろと思い巡らせて楽しむことができます。あまり深く考えすぎると意味論になってしまいますが、とにかくいろんな表現が重複して大きさを表すことが分かります。

様々な比較をしていくと一冊の本になりそうですが、ここで私たちが確認しておきたいことは、大きさ、長さ、広さとして習うようなことも、数量、面積、体積が計算できればいいというようなものではないということです。計算は数値で表して伝えるための手段にすぎません。私たちが普段よく使う「大きさ」という言葉を一つとってみても、使う条件や場面、使う人の意図によって表現の仕方が大きく変わるのです。この複雑な言葉の使い方を理解する基盤となるのが、普段のコミュニケーションを通した言葉の理解であり、読書や体験を通した言葉の理解なのです。

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