●幼児期の精神活動の基礎作り
要旨/・子どもは大人と同じ精神を持っている。
*ここでの精神とは自分自身のことで、意志や心の強さなどを表現するもととなっているものです。
・幼児は精神の表現力を持つために、感性を全開して情報を吸収し、基礎を作る。
子どもは生まれたときからすでに大人と同じ精神を持っています。お母さんのおっぱいを大声で泣いて求め、うれしいと笑い、おしっこで気持ち悪いとまた大声で泣きます。自分の意志は大人以上にはっきりしています。
幼児期には完全な精神は持っていてもその表現力は未熟ですから、その表現方法を学ぶために、五感を使って情報を収集し、自分のものにしていきます。危険であろうとなかろうと関係なく興味のあるものにはすべて手を出し、すべての感覚を受け入れていきます。見て、聞いて、なめまわして、触って、臭って、壊してすべての物を確かめていくのです。このすべての物に興味を抱き、すべての感覚を受け入れるのが幼児期であるとすれば、これほど重要な時期はないといえるでしょう。自分の感性で確かめ自分で見極めて覚え、自分の精神活動の基礎としていく。そして様々な経験をするうちに、自分自身を表現する方法を身につけ、知識として形成する準備をしていきます。
自分の精神を表現しはじめると人にはそれが意志の強さや心の優しさのように感じられます。「3才になって自分のほしいものがいえるようになってきた」というとすれば、それは言葉を覚えたということです。受取る大人にとっては意志がはっきりしてきたと受取ることができるかもしれませんが、2才の頃から自分のほしいものには突進し、危険だからと取り上げられたら大声でないて、自分の意志を何の抵抗もなく示していたことを思い起こせば、表現の仕方が変わったととらえたほうがいいでしょう。
こうして年齢が上がれば上がるほど、何でも取り入れる開かれた感性から、知識で判断し選別する思考へと変化し、表現も泣きわめくような表現から少しずつ言葉や身振りを使った表現に変化していきます。
●年齢とともに育つもの
要旨/・肉体、知識・技術、社会性は年齢とともに育ち、精神は表現力を増していく。
では幼児期を経て、小学校低学年になった子どもたちはどうなっているでしょうか。この時期は十分整理されていない知識を使って少しずつ自分で判断し始めているものの、まだ開かれた感覚を使って多くの自然な経験を積み重ねて基礎を築いていきます。そして多くのものを受け入れ、模倣し、創造します。
幼児期から小学校低学年で成長しているのがはっきりする点は3つあります。ひとつは体が大きくなりしっかりとした動きができることです。二つ目に人の動きや物の様子を五感で感じ取って、かなり模倣できるようになっていることです。三つ目に、外界の様子をとらえ、自分がどのように行動すればよいかの判断を少しずつするようになっていることです。
大人になるとどうでしょうか。大人になると知識は整理され、体系的な学習も行い、専門的に深く研究するようになります。そして社会の中で一人の自立した人間として生活していきます。
子どもから大人へと成長しているのがはっきりする点も3つあります。肉体的な強さ、豊富な知識と高度な技術、そして経験に支えられた社会性です。精神の表現力も豊かになり、一人の人間として尊敬されるようにもなります。
肉体は生まれてからある年齢まで成長を続けます。知識と技術も持たずに生まれます(本能的に持って生まれるものは別として)。江戸時代に生まれてパソコンができても意味がありませんから、生まれたときに必要とする知識や技術は生まれてから学ぶわけです。社会性も同じで、縄文時代と現代ではまるで違うでしょうし、国によっても違いますから、生まれた時と場所に合わせて学びます。
そして生まれた時から完全な精神は、大人になるにしたがって、学んだことを表現として使えるようになり、感性に加えて知識を表現に使い始めていきます。大人になるにしたがって感性が磨かれると言われますが、どういうことでしょうか。それは感性が育つということではなく、持って生まれた感性がその時代に適合していくということだと考えるべきだと思います。
●危険な知識のつめこみ
要旨/・精神の表現力が育たないうちに知識をつめこむと実感を持って受け入れられず、理解できない。
幼児期から小学校の低学年は精神の表現力の基礎を築く時期です。この時期に、知識ばかりを与えすぎて、精神の表現力が育たないと、根が十分に伸びる前に植物の葉を大きくするようなもので、強い風がふけば、根っこごと吹き飛ばされてしまうような危険にさらされます。しかも幹も十分な太さがありませんから、折れそうになるでしょう。
子どもの勉強嫌いは、その危険を身を持って体験している子供達の警鐘のように思えます。国語でも算数でも図工でも同じことです。多くの経験を伴った感覚が身につき、精神の表現力がついてこそ、知識を実感を持って受け入れて自分のものとし、表現として使うことができるようになります。それができないうちから知識を与えると、ただ記号として覚えるだけになり、テストで答えは書けるが、その知識が使えない人間になっていくわけです。言葉は人とのコミュニケーションを通して実感あるものとして覚えていかなければなりません。数も生活の中で体験することから実感を持つことができます。これが不足している段階で計算に入ると実感のない数字の連続に見えてしまうのです。
●固定観念の拘束
要旨/・固定観念はマイナスの感情をともなった考えとして蓄積され、本当の姿が見えなくなる。
幼児期から幼年期にかけての子どもたちの精神はまさに純粋で、人間の本来の姿を映し出しているかのようです。人間のあるべき姿といってもよいほどでしょう。美しいものを美しいといい、おいしいものをおいしいという。人には優しく、でも自分の願望は譲るところがありません。
この精神の表現は年齢とともに変化していきます。自然に感じる心で正しく受取ったものは知識として分析的にファイルされます。一方自然に感じる心が何らかの理由でゆがめられ、マイナスの感情をともなった考えとして蓄積されるものがあります。これが固定観念であり、動かしがたい不自由を受ける原因です。
固定観念の定義を辞書でひくと「そうだと思いこんで、変えられない考え」とあります。「勉強は苦しくてもがんばるもの」「学歴が人生を左右する」「お金がなければ生きていけない」「子どもには教えてやらなければならない」「子どもは素直な方がいい」といった考えは、ある時代には正統的であまり疑いを持たれません。それはある面で正しく、モットーとしている人もいます。しかしそのような考えが固定観念となって、現実が見えなくなり、目の前で起こっていることが理解できなくなると、それが当てはまらない場合でも、その考えにとらわれてしまい、誰が見てもおかしく思えることをしてしまうようになります。
せっかく楽しく理科を勉強していた子どもに、やる気があるのだからもっとやらせてやろうと思い、問題集を毎日することを義務づけさせたらどうでしょうか。収入は少ないけれども自分が心からやりたい仕事をしている人に、お金がなければ生きていけないのだからあんな収入じゃね、というとしたらどうでしょうか。自分で楽しく工作している子どものそばへいって、あーしたほうがいい、こーしたほうがいいと言い続けている大人はどうでしょうか。大人の考えに対して自分の考えをしっかり言うことができた子どもに、素直じゃない、生意気だと言う大人をどう思いますか。固定観念があると、現実に目の前で起こっていることが見えなくなり、過去に固定された考えで行動してしまうようになるのです。
コンクールで金賞を取った絵を見ると、評価の観点があります。詳しくは知りませんが、たぶん夏休みがテーマなら虫やプールや海などの夏を感じさせる内容で、画用紙からはみ出さんばかりの元気よさで、結構細かく観察してある、ということでしょうか。それはそれでいい絵です。評価されてもいいでしょう。問題はそれがいい絵の基準になって、そのように描けない子は絵が下手な子という評価を下したり、評価されるためにそのように描くように指導したりする人がいることにあります。
私が中学生の時、美術の先生が、「私はこういう絵にいい点をつける」と説明してくれました。最初の先生はこうです。「絵は一生懸命描きなさい。きれいに描くよりも一生懸命かいている絵がいい。」といいながら、壁にかけてある絵を見ながらどのような絵がいいかを教えてくれました。金賞という札がついている絵を指して、この絵はきれいだが一生懸命ではないので私は評価しないと言っていました。その時は一生懸命に細かく描くように心がけました。次の先生は若い先生で、「決まった通りに描くのではなく自由に描きなさい。」ということでした。みんな自由に絵を描き、そして絵に何段階かの評価がついていました。誰にもその評価の意味は分かりません。しかし学生の時はそれを疑問にも思わず受け入れてしまいました。そういうものなのだと。
私が小学生の時です。公園の木の幹を緑色にぬりました。先生は木の幹は茶色だから茶色にしなさいといい、私は緑の幹もあると主張して平行線をたどったことがあります。海を描いたときのことです。私は深緑でかきましたが、先生は、海は青だといいました。岡山県生まれの私は、海といえば瀬戸内海であり、深緑なのです。ですから青い海といわれても、どこが青いんだと思っていました。でもテレビで見る海は青です。その頃の私にとっては自分の目で見た海の色が、海の色だったわけです。
この話は単に先生が緑色の幹や深緑の海を知らなかっただけかもしれません。しかし心で感じる前に、自分の目で本当の姿を見る前に、これはこうだと決まっていると思っていることがたくさんありませんか。海は青い、木は茶色だと。
●どのように子どもに接するか
要旨/・本来持っている心や興味・関心を育てるにはよい環境作りが大切。
・大人の固定観念を与えない。
・知識を与える前に十分な体験をして、精神が表現できるように基礎を築くことが大切。
・精神の表現力がつくように子供の感性を大切にし、環境を整えよう。
<心や興味・関心を育てること>
心を育てるという言い方をしますが、これは本来持って生まれた心を失わせず、正しく表現する方法を教えるということになります。子どもは優しさを表現するのは上手です。ところが乱暴な表現(大人やテレビやマンガ本などから入る情報)を見て模倣し、いつのまにか優しい表現よりも乱暴な表現の方が多くなり、小学校高学年になると乱暴な言葉に自分を感じはじめさえする子もいます。
これにはちょっとした法則があります。それは強い存在の模倣をするということです。例を見てみましょう。ある子が2つ目のアイスクリームを食べようとしたときに、お母さんが「さっきも食べたからだめ!」と怒り、その子は食べるのをやめたとします。強い立場は母親です。今度はその子の妹が2つ目のアイスクリームを食べようとしました。その子は妹に「さっきも食べたからだめ!」と怒ります。強い立場を模倣したのです。またある子がテレビを見ていて正義の味方の主人公が「やるっきゃねーよ」といっていれば、その子はいつのまにか「やるっきゃねーよ」といっていたりします。おもしろいことによく負ける悪役の模倣をする子はあまりいません。強い存在の模倣をするのです。
ですから親が子どもに強い立場を示すときは気をつけなければなりません。大声で怒って示せば子どもは大声で怒るようになりますし、ものと引き換えに言うことを聞かせ続ければ、いずれ子どもがあなたに交換条件を突きつける時がきます。学校の先生の態度にも同様のことが言えます。
やさしい心を子どもは生まれながらにして持っています。しかし表現の方法はよく知りません。大人がやさしい心を子どもの前で示せば、子どもはそれを模倣します。それが子どもの表現になるのです。
興味・関心を育てるということも同様です。生まれながらに持っているのですから、つぶさないように気をつければいいだけです。育てるということは、本来持っている力を発揮できるように環境を整えてあげるということです。そして成長するにしたがって、その段階に応じた技術の指導を行うということです。子どもはどんな物にでも興味・関心を抱きます。危険かどうかも関係ありません。自分の体に害を及ぼすものでも興味を持ちます。害があるかどうかも知らないのですから当然です。ですから大人が責任を持って危険から守ってやらなければならないのです。
<固定観念を与えない>
子どもたちは固定観念を「正しい」こととして与えられてしまいます。では、どうやって与えられるのでしょうか。早期教育によって何らかの基準を与えられる子もいるでしょう。また家族やテレビもいろんな情報を与えます。保育園に入れば、そこでまたいろんな「正しい」が与えられます。小学校へ行けば、「正しい」の一方的な連続となります。絵はどのような絵がいいのでしょうか。音楽はどのように歌えばいいのでしょうか。国語はどのように読めばいいのでしょうか。算数はどのように答えを書けばいいのでしょうか。
これらの答えを子どもに与えたときに、精神の表現の基礎が十分にできていない子は、十分に「正しい」ことが感じられずに、ただ覚えるだけに陥ります。それを毎日連続していくと、自分で正しいかどうかを判断することをやめ、一方的に受け入れるだけになっていきます。ただ覚え、受け入れるだけです。そしてなぜかも分からず、そうなのだという考えとして固定され、あたかも自分がそう感じているかのような錯覚に陥ります。覚えた答えはただ覚えただけですから、テストの答えとして書くことはできますが、自分で使うことはできません。指示を待つおとなしい子供ができあがりました。一見素直に見えますが、自ら学ぼうとしたり、正しい答えを見つけ出そうとしたりすることのない受け身の子供です。
ただ覚えるだけを拒否する子どももいます。いやだ、やらない、やりたくないの連続ですが、子どもとしては自然な行為です。根がまだ十分伸びていない自分に大きな葉をつけさそうとする行為に対して、自分の生存を守ろうとする行為です。
<子どもの感性を大切にし、環境を整える>
絵を描いた子どもが、自分の絵を批判されたときにどのような気持ちになるでしょうか。自分が正しいと確信し、完成させた絵に対して、高い評価ならまだしも、低い評価を下されたとしたら、たとえ前向きな表現として「もっとがんばろう」という表現だとしても、子どもは困惑してしまうでしょう。自由に自分を表現する世界で自分の思う通りにしたことが、否定される瞬間です。きっと自分自身が否定されたような感じになり、どうしていいか分からず、うろたえるでしょう。何が悪くて、そんな評価をされたのかまったく分からないはずです。まだ知識を問う他の教科の方がショックは少ないのではないかと思います。
仮にその理由を説明しても、子どもが理解できるような説明ができるでしょうか。「もっと元気よく」「いろんな色を使って」「もっと明るく」「よく見て」このような指示で分かる子どもがどのくらいいるでしょうか。「本物とちがうでしょ」「みんなが描いているのをよく見て」「これでいい点がつくと思うの」こんな言い方になると、子どもは自分自身が失われたような気がしてきます。自分が正しいと思ったものが否定され、他人の感性に合わせるように指定されているのですから。そしてだんだん絵が描けなくなっていきます。
子どものうちは、少なくとも小学校低学年までは、子どもたちが描ける環境を大人が整えた上で、自由に描かせましょう。画用紙の上に筆を置いたときの色彩、別の色と混ざったときの予期せぬ色の変化、筆を洗った時の水の色の美しさ、画用紙の上で水がもたらす自然で流動的な形状、様々な体験を繰り返す中から連想され、創造され、新しい世界が生まれていきます。
絵を描くことに慣れていない子どもでも、少したつと自分の感性で表現し始める瞬間があります。子どものするどい感性で描かれたものは、しばしば大人を驚かせます。子どもの目で、心で見たまま、感性で感じたままを描かせましょう。そして大人の目で批判するのはやめましょう。なぜなら子どもにはそう見えているのですから。
ここで言っていることは、子どもは感性を十分に使って表現してからでないと、技術ばかりにとらわれて、感性が表現できなくなるということです。十分に根をはって、しっかりとした幹ができ、それから熟した実をつけるのです。
何も考えずに描けばよいという意味ではありません。芸術は感性だけでなく、技術や考えや主張も表現のひとつとなっているわけですから、技術を磨き、考えて描くことも必要になっていきます。
自分が自由に描けるという自信と描こうという意欲を十分に持つことができたら、少しずつ技術的な指導に入っていきます。体も少しずつ思い通りに動くようになっていますし、考えて描くということも少しずつできるようになっています。
●最後に
人間は物質として生まれ、だんだん人間らしい精神を持っていくのではありません。生まれたときには完全な精神を持ち、大人になるにしたがってその表現力を持つようになるのです。
知識や技術ばかりを与えるとその精神が押え込まれて、決まったことはできるが、自分が表現できない人間に育っていきます。ですから精神を大切にし、そこから意志の力や心の豊かさが表現できるように導いてやることが大切です。
私たちがすべきことは、子ども達に与え、指示することよりも、環境を整え、子ども達が自分で学べるようにしていくことです。子ども達の学習意欲は人生の中で最大値を示しています。カノンがその最大値を引き出してくれることをいつも願っています。 |